2011年09月17日

秋の楚人冠邸オープン

杉村楚人冠邸が今秋11月から記念館として一般に公開される。
ご遺族の方から貴重な歴史的資料が含まれる6000点余が市に寄贈された。その中から、幸徳秋声の同棲相手で同じく検挙された菅野スガが獄中から、幸徳の無実を晴らすよう弁護士に頼む旨の針文字書簡(一見白紙と思わせるが、明りに針穴をかざすと文書になる)が楚人冠宛に寄せられていたとの新事実が発見されたと新聞にも発表(2010年)され、話題になったた。

当時、治安維持法の下、1925年から1945年の間に日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。この法律は、戦争が終わってしばらく効力を持って逮捕を続けていたもので冤罪による拷問も多く行われていたと言われる。小林多喜二の例などもその一つとして知られて、多喜二とも親しかった志賀直哉も日記に触れている。

明治43年6月22日付けの時事新報で、報道された横山勝太郎弁護士宛てのもう一通の針文字と一致するものだと言われる。この針文字について、横山弁護士は、刑務所の検閲印がないから“にせもの”である、と断じていた。しかし、断定は出来ないが、楚人冠宛の針文字が出てきたということは本物説が強くなる。我孫子に来る以前に、楚人冠は大森に住んでいたがそこへ届けられたものを我孫子に転居(関東大震災の影響で)した時にも捨てずに保管していたということになる。これらの資料は既にマイクロフィルム化されて我孫子市教育委員会文化課で閲覧できるようになって、一般に公開される秋に向けている。大逆事件から100年の折に、近代日本ジャーナリズムの先駆けと言わる楚人冠邸が公開され、我孫子は話題の秋を迎えることになりそう。

楚人冠の研究者であり、我孫子市教育委員会嘱託職員である小林康達著の『七花八裂ー杉村広太郎伝』のあとがきに、病床で日本の敗戦のことを聞いた折に、楚人冠は「これでよかった」と家人に言い遺したと結んでいる。

針文字の書かれた紙大逆事件.jpg
 
 杉村縦横宛管野須賀子名の針文字書簡

       封筒表 京橋区/朝日新聞社内/杉村縦横様 〔右隅〕前社屋
   消印  牛込/43611/后12
   同裏  緘 六月十一日(差出人の住所氏名はない) 拝

         本文 (一枚の半紙に針文字で書かれている)

           京橋区瀧山町
    朝日新聞社
     杉村縦横様
      管野須賀子
               爆弾事件ニテ私外三名
   近日死刑ノ宣告ヲ受ク
   ベシ御精探ヲ乞フ
   尚御幸徳ノ為メニ弁ゴ士
   ノ御世話ヲ切ニ願フ
          六月九日         彼ハ何ニモ知ラヌノデス

*杉村広太郎は、楚人冠の他に縦横など20余りの筆名をもっていた。



posted by Nina at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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