2011年09月16日

野田首相と松下政経塾

千葉県では、長らく金権風土を象徴するようなスキャンダルが相次ぎ、中央でもロッキード事件などが日米間でも政治と金の癒着が起こり、国民は政治にうんざりしてきました。

野田首相は、3歳半の時に政治家の存在を意識したものの、上記のような世相で、ジャーナリスト指向に向かいつつあり、偶然から松下政経塾の門をたたき一期生になりました。当時、松下幸之助の直言を聞く幸いもに恵まれ、志高い塾生と切磋琢磨する機会を得ました。

あるとき塾生の1人が、例のホトトギスの故事に倣って塾長の生き方を問いました。信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」と言いました。秀吉は「鳴かせてみせよう」と答えました。家康は「鳴くまで待とう」と言いました。塾長ならばどの生き方を選びますかとの質問に、松下塾長は即座にこう答えたというのです。「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」。この間髪を入れない回答に、鳥肌が立つような感動を覚えたというのです。

また、ある塾生が、「政治家は当選後に何をやるかが重要であって、選挙はいわばなりふりかまうことなく勝てばいい」と主張しました。このとき、松下塾長はこめかみに青い筋を浮かべて、烈火のごとく怒られた。「当選するために何をやってもいい」という発想はおかしい。選挙のやり方によってその後の政治活動は規定される。だからまず選挙のやり方を変えないといけない。塾長はこのように熱く語りました。

世のため人のために役に立とうという気持ちを「志」とするならば、松下塾長の熱い思いに触れ、個性豊かな塾生たちと切磋琢磨した経験が、野田の志の原点だというのです。これらの出会いは、「お会いできて良かった」「会わないほうが良かった」程度では済まない、生涯を通じて何らかの回答を迫られる出会いだと考えています。

志の実現には、野田は2つのことが重要だとし、第1は「コツコツ」、第二は「プッツン」だとしているのだそうです。つまり、毎日あきらめずに粘り強く活動を継続し、思いきりやること。野田が継続し実行して有名なのが、毎朝の船橋駅での演説活動でした。20年以上にもわたるそうです。私も市議当選以来、毎朝に駅頭演説活動を続けましたが、県議選出馬でバッジを外すまでの約7年半でしたから、20年超を継続するのはやはり尊敬の念です。

野田氏は、最初から無所属で県議選に出馬、55年体制打破を目指して国政初挑戦するなど、従来のやり方を見るまでもなくプッツン(宇宙人と言われるのと通ずる部分か)しながら、最近の民主党代表選でも躊躇せず、しかし確実に階段を上った。野田のいうところのプッツンしながら、奮起、より大きな高い壁に挑んできたのは、みごとでした。今後も「コツコツ」と「プッツン」を繰り返しながら、志の実現を目指し、決意を実現していくのが野田流なのでしょうから、確実に結果をだしてほしいです。組織、政党を守るためではなくて、日本国民の未来を守ってほしいもノダ!!

そして、金権千葉を払拭して、新たな千葉の政治史に塗り替え、首都圏初の女性知事を生んだ以上の千葉に、この際は、なっていほしいです。私たち千葉県民も、津波、液状化、放射能汚染からの復興をかけて、グローバルな競争にも勝ち抜き、正しい道を目指さし、子供たちに恥ずかしくない未来を守る姿を見せなくてはなりません。女性も、男性も、子供も、お年寄りも皆が幸せになる未来に向かって結束していくべきです!

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松下幸之助は、実業家として成功を収めた、その晩年に次代の国家指導者を育成すべく70億円もの私費を投じて公益財団法人・松下政経塾(神奈川県茅ヶ崎市)を設立しました。現在は幸之助の遺産の利子や運用益を財源として運営されています。

開設当初より、在学中または就職中でない22歳以上35歳以下の青年が対象、所定の選考に合格した者のみが入塾を認められことになっていました。在籍中は毎月20万円の「研修資金」が給付されるほか、各自の活動計画に基づいた「活動資金」が別途支給されるのです。研修カリキュラムは政治学・経済学・財政学などの専門的なものから、茶道・書道・坐禅、伊勢神宮参拝など日本の伝統に関する教育、さらには自衛隊体験入隊・武道・毎朝3kmのジョギング・100km強歩大会といった体育会系的なものまで幅広く用意されているのでした。

現職の政治家である卒塾生は2010年8月30日の時点で衆議院議員31名・参議院議員7名・地方首長10名・地方議員24名の計72名に上ります。多くは二大政党である民主党・自民党のいずれかに属し、現在では特に民主党に多くの卒塾生が所属しており、同党内では右派に位置する勢力として、党のスタンスに一定の影響を及ぼしています。かつて多党制の時代には、民社党、日本社会党に所属した地方議員もおり、現在でも公明党に所属する地方議員がいます。

全体的に右派色が強い傾向にある卒塾生にとって、55年体制下で思想的に距離が近い政党は基本的に自民党か民社党に限られ、自民党は現在ほど候補者公募に熱心でなかったため後ろ盾のない卒塾生が公認を得ることは難しく、また民社党は多くの候補者を立てるだけの力がなかったため、当時は卒塾生の受け皿になる政党がない状態が続いていました。

世襲候補として当然に自民党の公認を得られた一期生・逢沢一郎はむしろ例外的な存在でした。1990年の第39回総選挙では逢沢に続けと数名の卒塾生が出馬したものの、その大半は政党の公認を得られず、結局逢沢以外の全員が落選していました。政界再編期に入ると日本新党・新生党・新党さきがけと言った保守系新党が卒塾生の受け皿として機能するようになり、1993年の第40回総選挙で卒塾生の国会議員が大量に誕生することとなりました。特に大量の新人候補を擁立した日本新党から出馬して当選するケースが目立ちました。

その後、卒塾生らによる新党構想の一環として「志士の会」が結成されるなどしたものの結局頓挫し、卒塾生の大半は新進党から民友連を経るコースで民主党に合流。さきがけなどを経て旧民主党の結成に加わったのは前原誠司・玄葉光一郎など少数に留まっている。また高市早苗や伊藤達也など、非自民政権構想に見切りをつけて自民党に移籍する議員も見られた。

1992年(平成4年)宮沢改造内閣で1期生逢沢一郎が初の政務次官(逢沢は初の国会議員であり、また幸之助が多額の寄付をして松下記念図書館を寄贈した慶應義塾大学工学部出身)、2002年(平成14年)の小泉改造内閣において5期生伊藤達也および高市早苗が初の副大臣、2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣において伊藤が金融政策担当の内閣府特命担当大臣として同塾出身者で初入閣。次いで高市が2006年(平成18年)の安倍内閣で沖縄及び北方対策・科学技術政策・食品安全・イノベーション・少子化対策・男女共同参画担当の内閣府特命担当大臣で入閣しました。2005年(平成17年)には第8期生の前原誠司が民主党代表に就任、初の野党第一党の党首および初の総理大臣候補となっています。2009年(平成21年)の鳩山内閣では、国土交通大臣に就任した前原や総務大臣の原口一博などを中心に計8人の出身者が大臣・副大臣・政務官などで入閣。2010年(平成22年)の菅政権では、留任の前原・原口に加え、玄葉光一郎が政調会長、樽床伸二が国対委員長、福山哲郎が官房副長官、野田佳彦が財務大臣など、政権中枢の要職を政経塾出身者が占めました。

2011年8月29日、1期生の野田佳彦が民主党代表に立候補、当選、承認。翌30日に国会で第95代内閣総理大臣に指名。これにより、松下政経塾出身者から初の内閣総理大臣が誕生しました。



posted by Nina at 09:58| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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