2011年09月30日

よみがえる力、再生の糸口

「財界総理」と呼ばれた土光敏夫さん(エンジニア、実業家。元経団連会長)の鶴見にある自宅で驚かされるのが、玄関の扉がたてつけが悪くてガタガタやっても開かないことだったという。そこで縁側から上がることになる。良く言って郊外にある質素な家だが、古い家だけあり、広い庭はあるが、それも池や石などない庶民の家そのものだ。普通の植木と芝生と野菜畑があるだけ。農作業用のズボンのベルト代わりに使えなくなったネクタイ。夫人との生活費は、年金生活者のように堅実で月10万円だけだったとか。収入は全て、母親が作った女子校へ寄付にまわしていたからだった。だから自宅の玄関も直そうともしないし、ガラスが割れても直せない。その健康法には、他の財界人のようにゴルフでもなく、お金をかけない、木刀を振り回しながら庭を駆けめぐるだけで、なんと隣の女子校に泥棒が入った時は、木刀を持って泊り込みに行ったとの逸話が残っている。

経団連会長を辞めた後、各方面で人気の高い土光さんは臨時行政調査会の会長に引っ張りだされた。1981年(昭和56年)の鈴木善幸首相、中曽根康弘行政管理庁長官に請われて第二次臨時行政調査会長に就任。就任に当たっては、

1.首相は臨調答申を必ず実行するとの決意に基づき行政改革を断行すること。
2.増税によらない財政再建の実現。
3.各地方自治体を含む中央・地方を通じての行革推進
4.3K(コメ、国鉄、健康保険)赤字の解消、特殊法人の整理・民営化、官業の民業圧迫排除など民間活力を最大限に生かすこと。

上記の4箇条の申し入れを行い実現を条件とした。行政改革に執念を燃やし2年後の1983年(昭和58年)に行財政改革答申をまとめ「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」などの路線を打ち出し、さらに1986年(昭和61年)までは臨時行政改革推進審議会の会長を務め行政改革の先頭に立った。謹厳実直な人柄と余人の追随を許さない抜群の行動力、そして質素な生活から「荒法師」「怒号敏夫」「行革の鬼」「めざしの土光さん」の異名を奉られた。

1986年(昭和61年)11月、勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988年(昭和63年)8月4日、老衰のため東京都品川区東大井の東芝中央病院で死去。91歳没。金儲けだけでは動かない日本的ビジネスマインドをしめした。

古い話だが、あの西郷隆盛に、これと同じような話がある。
西郷さんが、官を辞して、田舎に帰ったところ、そこへ村長が訪ねてきた。
村長は、西郷さんに、村の様々な問題や運営の難しさを切々と訴えた。
ずっと黙って聞いていた西郷さんは、やおら座りなおし、
「そいじゃ、おいどんがやろうか」と本気で言ったという。
西郷さんなら、掛け値なしで本気でやってくれるに違いないと村人は喜々としてやる気を起こしたのだという。千葉にも、農民の窮状を救うために命をなげうった佐倉惣五郎の霊廟が残され、今もお参りする人が絶えないが、こういう人がいて人々の力が結集して、物事が動くのである。

無我無私の人たちが、日本、地域、民の為に動いて変えてきていたともいえる。
明治の維新の政治家には、若くして亡くなった坂本竜馬など、私心なく命をなげうった人たちが多くいた。黒船到来、世界大戦を経て、150年間ほどもの変化の時を経て、今また坂本竜馬を引き合いに出して維新を語る現代の政治家や、中には政治生命を賭けるとまで言う政治家がいる。リーダーとして言った言葉が、その矛先を間違えれば国際的な国交問題に発展させ立場を失うこともあるのを目の当たりにしている昨今があるが、私心なく力を発揮してくれるリーダーと、日本の健全な社会を再構築していくために力を合わせなくてはならない。リーダーには、高い資質と私心のない姿勢が重要だ。日本は世界を担う一翼でもあり、アジアの未来にも、私心のない人々が働いてきた歴史の一端、多くの人々が流した汗と築いた知恵の結晶等など日本の過去の経験は大いに役立つはずだ。日本の再生のチャンスはそこにあるのではないだろうか。

参考:
城山三郎氏『よみがえる力は、どこに』新潮社
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2011年09月29日

市議会選挙について

◎市議会選挙について
 28日、アビスタホールで市議選立候補予定者に向けての説明会があった。因みに、みんなの党から公認で市議選に出る人もいるようだが、私は県議公認候補となっただけであったので詳細は知らない。

 といっても、海津にいなは候補者として出馬はしないが、このような形で今日を迎えるのは不思議な気分だ。市議になったとき、少なくても3期は頑張ろうと思った。しかし、選挙というものを経験すると市民という立場で議会をみていたのとは違ってくる。市議となった間、議案資料を読んだり、議会と市長と職員の発言のやり取りを聞いているうちに自分がもし市長だったらどう答えるだろうか、国会議員だったらなどと考えるようにもなる。議員だから市政への責任はよりあるから、市長の言動、県や国の動向により注目するようになるのは当然のことだ。

 そして、何人か市長を目指した女性議員仲間の選挙応援にも行くようになった。惜敗した人、当選した人をみてきた。千葉では、女性知事と言う時代だったので、二期目の選挙を選挙カーで応援に回ったり、アビスタ前や柏駅前でマイクを握った。女性国会議員の応援にも行った。銀座のホコテンや新宿駅のターミナルでしゃべったりもした。飛行機でとんで行くような所なら、その分を知事選のカンパにと振り込んだ。こんなことは市民であった時は考えもしない事だった。それで気付かされたのだが、男性の候補者にカンパする金額よりはずっと少ないことだろうと。どうも、男性の候補者に男性がカンパする場合はちょっとはずまなくてはと10万円位はと思うらしい。女性の場合は、まごころ・・・・・?

 しかし、政権交代もなんのその、女性の政治マイノリティーは相変わらずで、県議会は県民意識のブラックホールで旧態然だった。千葉県議会に目を向けなくてはと出馬したが、投票日の2011年4月10日、結果は出せなかった。「県の壁」を感じていた。今回、政党公認となって事務所を借りて動き出せたのが2月末だった。市議選の準備の時より遅いスタートだった。その上に3.11の地震となった。事務所前のガソリンスタンドは長い行列になり、またすぐにロープが張られて閉じられてしまう。いっしょに動いてくれるはずの若い(その上にみな可愛いい)スタッフなどは、放射能の影響をを考えると外で活動できない。私もマスクをして、ヤッケのフードをかぶって、放射能を気にしながらまちなかに出たが、選挙どころではなかった。

 そういう事態になって、新政党の候補者が一か月の活動もフルに使えないとなると地盤・組織を拡充してきた現職らの県議選経験者を向こうに1週間だけの選挙期間だけで結果を出すのは難しかった。もちろん、私自身の力不足、準備不足での「無謀な挑戦」だったのは否定できないが、党本部から2人区への3役幹部の応援は出せないというのも、キツカッタ。柏駅に江田けんじ衆議が来たのに、たった3分で来られる隣駅の我孫子には寄らないのだ。少ない人数で頑張っているスタッフに説明するのも苦しかった。選挙戦まで活動の自粛というのが党からの再三再四のメール要請だった。県内では6人または7人区と言われる地区で計4人の当選を出し、みんなの党の初統一地方選挙を終えた。政党公認選挙というより家族と友人だけの選挙となって県議会へ一矢投じるとの想いは的をはずした

 あらゆることが、3.11で変わった。変わろうとしていたものを停滞させ、芽を吹こうとしていたものを押し留めた。変革への風は、隙間風としか受け止められてしまったかのようだ。しかし、変革への挑戦を志した私自身はけして間違っていなかったと思うので、チャレンジに悔いはない。しかし、選挙期間に頂いた励ましや温かい握手、それらに応えきれなかったことは誠に申し訳なく思います。問題は、応援いただいた方々に今後どのようにお応えすべきか、だと考えています。

◎再挑戦も視野に
 実は、多くの方に「市議でがんばってほしかった」と吐露された。そうなんです、千葉県のイメージがつかめ切れない転入組県民の多い我孫子のような都市部では「千葉県」への意識がホントのところ持てないでいる。投票率も低いのが県議選の落とし穴です。さすがに「落ちてもまた市議選に出られるから」という言ってくれる人もあるけれど、「県」の改革へと目を向けてすぐさま出戻るというのも海津にいなとしては釈然としない。「みんなの党」は反対ばかりしている、にいなイメージとは違和感があるとも言われる。そこで「議員浪人」の間に充電して色々な方にご意見を伺いながら、我孫子にとって何が必要で、どんな可能性があるか、じっくり考えてみようと思い至りました。県議選に再び挑戦すべきかも含め、当市の発展に我孫子のみんなの力を結集するにはどうするのか、あちこち見て回ろうと考えます。楚人冠も、柳宗悦・兼子も、嘉納治五郎も大きく世界を見据えていたのですから、我孫子を発展させるのにどぶ板だけ見てるのじゃ、我孫子には不十分なのです。

 やはり「地球サイズに考えて、地元のために行動する」、それが我孫子をイキイキと変えて、持続可能性につなげると私は確信してます。
選挙期間中は立候補者はブログ更新禁止ですが、候補者じゃない海津にいなならバシバシ書けます (*^^)v


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2011年09月28日

東電、プルトニウム検出の発表

3月28日に福島第一原発敷地内で「ごく微量のプルトニウムを検出した」と東京電力が発表したが、それ以来、「プルトニウム放出の疑惑」をメディアはほとんど報じてこなかった。

9月になって、驚くべき情報が飛び込んできた。通常、重い元素だとされ遠くに飛ばないはずが現在計画的避難区域に指定されている福島県の飯舘村に大量に見つかったというのだ。<
09月13日18時42分 日刊SPA!>
http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/fdc93e3a96779b3048015777dd7ef8de
 
プルトニウムとは天然ではほとんど存在しない放射性物質で、半減期2万4065年と言われるが、呼吸などで体内に入ると骨や肺に沈着し、強い発がん性を帯びる。半減期は非常に長く、体内に入ると放射線を出し続け、排出されにくい。核分裂を起こして膨大なエネルギーを出すため核兵器の材料となる。

3月28日に検出されたうち事故の影響と考えられるのは2カ所で、濃度は高い方で土壌1キロ当たり0・54ベクレル。過去、海外の核実験の際に国内で観測されたのと同じレベルで、東電は「通常の土壌中の濃度と同じ。人体に問題になるものではない」と説明している。経済産業省原子力安全・保安院や専門家も「ただちに健康に影響はない」との見解だ
政府の試算では飯館村のほかにも、
川俣町の東半分、そしていわき市の北東部の一部などが高濃度の汚染地域であると見られている。

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2011年09月23日

様々な情報

> [転送・転載歓迎します。重複受信の際はご容赦ください。]
>
> ベラルーシでは子ども・大人の甲状腺がんがチェルノブイリ事故後1年で増加(ミハイル・V・マリコ)/原爆投下後の最初の年に白血病が増加(草野信男『原爆症』)
> http://unitingforpeace.seesaa.net/article/265634282.html
>
> 国連放射線影響科学委員会(UNSCEAR)2000年報告によれば、ベラルーシではチェルノブイリ事故後1年で子どもの甲状腺がんが増加している。
>
> ベラルーシ:チェルノブイリ事故後1年で甲状腺がんが増加
> http://unitingforpeace.seesaa.net/article/255986068.html

> 国連放射線影響科学委員会(UNSCEAR)2000年報告
> http://www.unscear.org/unscear/en/publications.html

> UNSCEAR 2000 report - Vol. II: Effects
> http://www.unscear.org/unscear/en/publications/2000_2.html

> Annex J: Exposures and effects of the Chernobyl accident (115 pages)
> pp.498-499
>
> 福島集団疎開裁判・矢ヶ崎意見書甲104で取り上げられている「ベラルーシの青年・大人の甲状腺ガン」でも、ベラルーシで子どもだけでなく青年・大人の甲状腺がんが事故後1年で増加していることが報告されている。
>
> 「チェルノブイリ事故による放射能災害―国際共同研究報告書」(今中哲二編、技術と人間、1998 年)
> http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/J-Version.html

> 第5章「個別の健康影響研究」21節「ベラルーシの青年・大人の甲状腺ガン」(ミハイル・V・マリコ、ベラルーシ科学アカデミー・物理化学放射線問題研究所)
> 福島集団疎開裁判・矢ヶ崎克馬意見書甲104(「ベラルーシの青年・大人の甲状腺ガン」を収載)
> http://1am.sakura.ne.jp/Nuclear/kou104Yagasaki-opinion4.pdf

> 福島集団疎開裁判・意見書リスト
> http://song-deborah.com/copyright/Japaninfrige/Fukushima-sokai-case.htm
>
> 東電のサイトも国連放射線影響科学委員会(UNSCEAR)2000年報告からベラルーシにおける甲状腺がん発生件数のグラフを転載しているが、「一方、がんが事故後増加したという報告が見られるが、放射能で汚染のない地域でも近年増加しているという報告があることから、これも含めて考える必要がある」と記述している。
>
> TEPCO : 放射線の話 | 放射線コーナーQ&A その他 Q2
> http://www.tepco.co.jp/nuclear/hige/qa/thi/gqa/qa-g2-j.html
>
> ここでいう「がん」がベラルーシにおける甲状腺がんを示しているのかどうか分からないが、「ベラルーシの青年・大人の甲状腺ガン」によれば、青年・大人の甲状腺がんは事故前から増加傾向にあったものの、それは事故後の急増を説明できないほど小さい。
>
> 放射線とがん発症時期の関係については、原爆被害の研究で故草野信男が記録を残している。ECRR(欧州放射線リスク委員会)2010年勧告では、草野の『原爆症』(築地書館、1995年に再発行)を引用して、「初期の日本人の報告書は、原爆投下後の最初の年に白血病の症例が増加しはじめ(最初の症例は被ばく3 ヶ月後)、そして、原爆投下時には居合わせなかったが後になって被爆地に入市した人たちの間でも発症があったことを示している(Kusano 1953)」と書いている。
>
> 福島原発事故:その放射能の影響と欧州放射線リスク委員会勧告 第2回
> http://www.inaco.co.jp/isaac/back/032/032.html
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2011年09月22日

柳田國男、杉村楚人冠は「日本野鳥の会」創立の有力メンバーであり支援者だった

中西悟堂(18951984)が、日本野鳥の会を創立したのは昭和9年(19343月だった。創立の趣旨について中西は「日本野鳥の会の根本精神〜創立50周年を迎えて」の中で「当初のその発想には、それまでの長い歴史であった飼い鳥の因習打破ということと、もう一つには鳥の科学と芸術を車の両輪として走らせこそ文化の港に着くと言う私の考え方があって、その理想通りの交流が実行されていた」と述べている。また、日本野鳥の会の創立について、「はじめは友人であった詩人竹友藻風氏にしきりにすすめられて、鳥学の先達である内田清之介博士にまず相談したところ、幸いにも内田博士も私の考えとほぼ同じ考えだったという。

一方で、竹友氏はまず柳田國男(旧姓・松岡として、思春期を布佐で過した。両親の墓があるので布佐にたびたび来ていた。民俗研究の緒はその折の体験があるといわれる)に賛助求めたという経緯があった。
柳田國男は、日本野鳥の会の発足にあたって相当も援助をした。杉村楚人冠、泉鏡花らの人々に入会を誘ったのも柳田であったし、経営上の方針、金銭上の助力についても力添えした(『定本柳田國男集』第22巻月報)。

我が国で初めての「鳥類見学会」は昭和9623日の2日間富士山麓須走で行われ、参加者には内田清之介博士、子息清一郎、柳田國男、令嬢長女千枝子、次女三千子、金田一京助、子息春彦、杉村楚人冠、北原白秋、窪田空穂、若山喜志子、等々40余名が参加した。中西は「この探鳥会こそが、過去八百年来の陋習である飼鳥界への反逆の第一声であり、鳥籠を踏み潰して野生の鳥を楽しめとの宣言であった。」と述べている。当時は「探鳥」の言葉ではなく「鳥類見学会」の名称で行われたが、中西によれば『この言葉は硬くて一般普及性が無い』ので、その後中西が「探鳥」という言葉を造語、今日一般的に使用されるようになったと中西は言っている。また『野鳥』という言葉もいまでこそ国語になっているが、当時の一般語にはなく、どうも柳田が会名を「日本野鳥の会」、誌名を「野鳥」に決めたのではということだ。

楚人冠は昭和32月の随筆『巣箱再び』では、「春が来ると、巣箱を懸けなおすことが、この山荘の楽しい行事の一つである。」、「とにかく、四個とも鳥が巣ったところを見ると可愛さを覚える。一昨年は初めてのことで、鳥も考えてみて二の足を踏んだのだろうが、去年我らに害心なきことを認めて安心して巣ったものと見える。」、「何事も一年では分からぬことを、この巣箱は教えた。同時に気長く親切を示せば、鳥でさえなついて来るものであること、この巣箱は教えた。」と、とりどりに述べている。

柳田國男が大正155月『郊外』に書いた「翡翠の嘆き」と題する随筆に、「杉村楚人冠氏は巣箱主義の新たなる使徒である。彼の我孫子の村荘の園は森林の如く、晴れたる朝先生斧をを提げて下り立ち、数十本の無用なる木を切り倒すと、その中に往々に自然の鳥の巣を見出すという実情なるにも拘わらず、更に邸内に総計12個の巣箱を配置し、その箱にはヘットなどを塗りつけていとも熱心に雀以上の羽客を歓迎しているのである。」、然し、「池の金魚を食べるかわせみを非難する」楚人冠に「(カワセミ)嫌いなら嫌いでも結構と言ってもよいが、よいじゃ無いか君の家の泉水に、ほんの小雑魚を年にもう70匹か、80匹ほども余分に飼って置いて彼らに自由に狙わせて、遊ばせてみたらどんなもんだ」と楚人冠を揶揄している。結構に言いたい放題の強い仲間意識があったようだ。

楚人冠の昭和1043日の随筆『春暁聴禽』では、「それにしても小鳥の名をいちいち知っていたら、さぞかし興味を深かろうと思うが、生憎と私はその方にかけては、名だたる無学で、其の上目が悪いから、すばやく飛び交う鳥の姿を見定めることが出来ない。名を知らぬ悲しさ、美しい鳥、可愛らしい鳥と思うだけである。」、「負け惜しみかもしれぬが、まことに、小鳥の自然の姿を楽しむものは、鳴き声の妙なるを愛し、羽色の美しきを愛で、飛び移る姿の優しきを眺めていれば、それでよいのではないかと思う。」などとユーモア精神を発揮している。

関東大震災後の大正13年(1924)、我孫子に居を構えた杉村楚人冠(18721945)が大正15年(192610月に書いた随筆『鳥の巣箱」によると、彼はシカゴトリビュン社発行の巣箱に関する資料を入手、また日本鳥学会で製作している巣箱を購入、それを見本に巣箱を10個作らせ庭内に懸架した。更に昭和33月の随筆『二十二日記』では「雪が降っては小鳥が餌に困るだろうと思って、雪の小降りなったころを見計らって庭の枝にかけた鳥の餌箱に粟を入れてやる。この餌箱は大学の理学部の日本鳥学会でできたものだが構造がいいと見えて、毎朝一掴みの粟を入れておくと、何時どんな鳥が来て食べるのかは知らぬが、夕方までに綺麗になくなっている。別に宅で手製の餌箱の方にはさう鳥がよって来ない。」、などと書いている。

楚人冠も柳田も、あらゆる方面に率先して我孫子でも色々に取り組んでいた人だ。言行一致、言うだけでなく行動も伴う、我孫子の先達として私たちも学びとりたい。
 





 

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2011年09月21日

少しだけ参加して見る、やってみると変わる(*^^)v

台風によって都内はまたも大洪水、そして夕方の都市交通はストップ、帰宅できない人が多いです。
どうしてこうも災害が多い年なのでしょうか。

さて、「さようなら原発1000万人アクション」デモ&集会の模様がYoutubeから発信されています。 「70反安保闘争」の中でも一つの集会にこれほど多くの人が集まったことはなかったのではと見る人もいる。

集会を撮った上空からの映像(Jana Press)と ゲスト(山本太郎) スピーチ
19日午後の明治公園には、午後1時30分の開会前からおびただしい人々が続々とにつめかけた。既に1時前に、会場は、のぼり旗、プラカード、横断幕、そして風船をもった人たちで溢れかえっていた。会場に入れなかった人たちも多く、周りの道路や公園にも人の波が広がっていた。主催者側によると参加者は6万人以上とも見られている。60年安保闘争以来集会取材してきたジャーナリスなども10万人位いたのだろうなどのと感想だが、新聞での発表とはだいぶ開きがある。空中撮影の画像が上記HPに。
http://www.youtube.com/watch?v=dbsxzqz1Ahc&feature=related


ドイツの環境団体(フーベルト・ワイガー)のスピーチ
「フクシマの事故があったから、ヨーロッパに大きな変化を及ぼしている。そして、環境NGOのこれまでの活動をひっぱてきたことが政治家の考え方を変させた。私たちは民主主義のもとで訴えていきたい。半年前に起きた事故によってもららされた現実に対して皆で連携して闘っていきましょう」と、とても心強い励ましです。通訳・手話があるので聞いてみて下さい。
http://www.youtube.com/watch?NR=1&v=1T2TqwZHFLk

〇福島の人たちの声と 世界各国からの応援メッセージ
(このスピーチの原稿:http://hairoaction.com/?p=774 )
「支援をしてくれる人々に感謝、そして、子どもたちに詫びたい。被曝者となり、地域、人と人が引き裂かれています。様々な苦渋の選択を日々繰り返し国は国民を守らない、核の実験材料とされているようで疲れてくる。私たちをバカにするな、子どもの命をまもれと自分たちの未来を再構築するため、静かに怒りを燃やしている苦悩と責任と分かち合う私たちと繋がって下さい。私たちを助けて下さい、忘れないで下さい。
誰かに従うのでなく、自分で考え、自分の力で変えられると感じて下さい。背負っていかなければならないことから目をそらさない」
http://www.youtube.com/watch?v=kzidM16QIzs&feature=related

〇澤地久枝 スピーチ
「最近、骨折入院したけれど、この時に立たないででどうすると思いでここに来て立っている。
この国は原発などもってはいけない国だったはずです。人間がコントロール不可なものを54基も持ってはいけない。国に出された原発関連文書もほとんど黒塗りされて、無責任なものだ。フクシマは棄民にされている。電気がないと展望がない社会になると圧力をかけている、すり替えが行われている。政権交代が行われて、ここで考えなければ、結果は自分たちに帰って来る。これからの活動に期待している。政府と東電の悪しき体質を解明したい。日本の女たちは特に、役割を果たすのは今です。ここで私たちは負けてはならないのです」
http://www.youtube.com/watch?v=JCV9oGV7SlQ&NR=1

〇大江健三郎  スピーチ
「現状を変えるには、しっかりデモをするしかない!」
http://www.youtube.com/watch?v=_6cLZChcYA4&NR=1

〇内橋克人&落合恵子  スピーチ
「放射性廃棄物の処理能力を持たない人間が、原発を持つ事の罪深さを、私たちは叫んでいきましょう。
想像してください。まだ平仮名しか知らない小さな子どもが、夜中に突然起きて、「放射能こないで」って泣き叫ぶような社会を、これ以上続けさせてはいけないはずです。 私たちは、この犯罪に加担しないと、ここでもう一度、自分と約束しましょう。 原発という呪詛から自由になること、もちろん、反戦・反核・反差別は、全部一つの根っこです。命、ここから始まるのです。
諦めません。慣れません。忘れません。歩き続けます。この一つのウオークを、けが人ゼロ、熱中症ゼロ、もちろん逮捕者ゼロで、歩きぬきましょう。」
http://www.youtube.com/watch?v=kx_b2hJ8tLo&NR=1



鎌田慧、及び上記のスピーチ文が一覧できるURL
http://sayonara-nukes.org/2011/09/110919hatugen/

集会では、呼びかけ人9氏のうち5人が発言し、まず最初に、鎌田氏が「この集会は一つの結節点である。これを出発点として、1000万署名を実現しよう。これまでに集まっているのは100万だから、あと900万集めなくては。何としても1000万署名を達成し、脱原発の声として政府につきつけよう。野田首相は原発を再稼働を考えるようだが、国民の8割は原発はいや、やめてくれ、と言っている。原発の再稼働は国民の声を無視するものだ。核と人類が共存できないことはヒロシマ、ナガサキ、フクシマが証明した。子どもたちに平和な社会を残すためにも脱原発を」と呼びかけた。

参加者は午後2時半ごろから、渋谷、原宿、新宿までの3コースに分かれてデモ行進に移った。長い長い列が続いた。「さよなら原発1000万人アクション」について
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2011年09月20日

原発関連のリンク

> 転送のリンクのご紹介です。
> 興味のあるタイトルがあれば読んでみて下さい。


『ホットスポット』となった「柏と那須の現実」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/14449

> 主食が危ない! 「セシウム米が食卓に上る日」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/14455

9.11新宿デモ逮捕劇
http://etc8.blog83.fc2.com/blog-entry-1192.html


オノ・ヨーコ、脱原発を訴える「アイスランドを見習うべき」
http://jj88801.blogspot.com/2011/08/blog-post_08.html

福島原発は廃炉にできない
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110909-00000301-newsweek-bus_all

>ヤフー、全国11地点の放射線量情報をリアルタイムに公開するサービス
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20110805_465581.html
 
> 東電 黒塗り手順書 原発事故発生時の運転操作 過酷事故への対応は未提出(赤旗・9/8)
> http://heiheihei.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/09/08/akahata_0002.jpg
>
> 電気代給付 天下り法人 職員の半数「電力」 給与など丸抱え出向(東京新聞・9/8)
> http://heiheihei.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/09/08/tokyo_0001.jpg
> http://heiheihei.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/09/08/tokyo_0002.jpg
>
> 泊3号機再開容認 道知事に北電のカネ 役員が定額献金 6年で244万円(赤旗・9/7)
> http://heiheihei.cocolog-nifty.com/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2011/09/07/akahata_0002.jpg
>
> 児玉龍彦(東大先端研教授)×津田大介(ジャーナリスト)対談Vol.2
「いまこそ除染のために民間のベストアンドブライテストを集めるべきだ」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/16198


収拾のめど立たない放射能の影響
[農漁業被害]輸入停止、検査証明要求が34カ国・地域
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/14819


菅首相周辺が「改革派官僚」古賀茂明氏に接触していた「経産省3幹部更迭」の裏事情
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/14821

> 値上げなんてフザケるな!東電 電気料金15%安くなる
http://news.infoseek.co.jp/article/11gendainet000154335

ウォールストリードシャーナル

福島原発周辺の広い地域に放射性セシウム汚染−初の包括調査
http://jp.wsj.com/Japan/node_298103?mod=MostPopularBlock


ヤフー、全国11地点の放射線量情報をリアルタイムに公開するサービス
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20110805_465581.html


東電賠償請求書類は「いやがらせ」? 専門用語だらけマニュアル156ページ
http://news.infoseek.co.jp/article/20110913jcast20112107162


公開された資料で判明 報じられなかったプルトニウム「大量放出」の事実
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/18245

「ミスター大丈夫」山下俊一教授がまたしでかしたトンデモ発言
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/19050
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2011年09月19日

二イハオ、SMAP

Youtubeは世界で見られるという、そこにSMAPの動画も既にアップされていた。
東日本大震災の写真が「たった一つの花」の歌がBGMになってつづられています。

SMAPが初中国語で世界上唯一的花を歌ったものです。

こうしてみても、SMAPが中国北京でライブの意義は大きいでしょう。中居くんが、北京の国会議事堂となる「人民大会堂」で記者会見を行ったときに、「SMAPの年表が作られるとしたら、必ず太文字になる出来事」と言ったそうです。現地中国だけでなく、日本の芸能ニュースにとどまらず報道番組でも取り上げられ、英国BBCでも放送された。SMAPは国賓として扱われ中国日本の戦前のために招聘されたと紹介、9/16に北京でSMAPのライブが行われる前に、上海でのライブが一度目は安全面が問題となり中止、二度目は尖閣諸島沖での漁船衝突事件で延期になっていたので、もう無理なのかと思っていました。今回の、大歓迎ぶりを見て、日本人としても嬉しい。75歳のおばあちゃんまで、イキイキした嬉しそうな顔をしてマイクのインタビューに答えていた。日本のヨン様ブームは米国にも伝わっているほど有名だけれど、それにつづく国境を超える友愛の情だろう(*^^)v

日、TBSの「情報7daysニュースキャスター」ではスマップのファンの女性を密着していかに中国のファンがSMAPを待っていてこの日を楽しみにしていたかを追っていてすごく良かった。国の政治的思惑を越えて、SMAPを愛していて応援して会いたい!という想いは共通に強いものなんだなと思った。SMAPに会いたい!!!中国では、スマップのチケットが日本円で2万円以上もするそうで、「ニュースキャスター」で密着していたファンの女性の給料の半分ぐらいの価値だと聞いて驚いた。SMAPが北京で無事ライブができて本当に良かった!中国にいるファンの方たちは、普通に参加できるライブじゃなかったけれど、お金を貯めてとても楽しみにしていたんだよね。成功して良かった。

世界にたった一つの華は、世界の名曲になったのだ。だって、中国人は世界一の人口を抱えているのだから、ある意味ではThe Beatlesを凌いだスターなのでは (*^^)v  ら〜らら、ら〜らら、ら〜らら、ら・・・・♪ 日中平和、いいね。

日本語バージョンに中国語の字幕でも、聞けます。やはり、一人一人を大事にしたいという歌詞と覚えやすい曲、手ぶりもいい。40歳になってもSMAPはスマート日本男子、国境や政治的思惑も越えてアジアに愛されるスターだ。なでしこJAPANも世界に感動を与えたけれど、震災後に懸命に立ち上がろうとするフクシマ・東北の人々に元気になって立ち上がってもらえるよう、世界中が応援してくれているのも感じた。多謝 (*^^)v 

下記、花の中で世界の子供の笑顔が、英語バージョンで歌われています。You may be happy ♪♪
http://www.youtube.com/watch?v=-OsTjlYEbLk&feature=related


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2011年09月18日

放射能、原発関連リンク


オノ・ヨーコ氏、脱原発を訴える「アイスランドを見習うべき」と、地熱発電の記事が下記に掲載されていたので紹介します。オノ・ヨ―コ氏は、夫である元ビートルズのジョン・レノンが凶弾に倒れた後も、夫の偉業を記念してイマジン・サークルを残すなど、世界の平和を訴えた芸術活動を継続している。

 【8月8日 AFP】
原発から再生可能エネルギーへ移行し、地熱発電を利用しよう―東日本大震災後、初めて日本を訪れたオノ・ヨーコさんがエネルギー問題に対する思いを語った。

オノさんは4日、森美術館などが都内で開催したトークイベント「オノ・ヨーコ−希望の路」に出席。AFPのインタビューで、第2次世界大戦と原爆投下から再生を遂げた日本は、震災と原発事故からも再び蘇ることができると力を込めた。

■もうひとつの地震国、アイスランドの地熱発電

「今の状態は悲惨。もちろん、私たちは原発を廃止しなければならない」。オノさんは日本の原発事業に関してこう語り、原発事故は日本だけの問題ではないと訴えた。「これは日本だけに起きたことではなく、私たち全員が共に住んでいる世界全体に起きたことです」

 さらに、日本でも支持が増えている、風力、太陽光、地熱などを利用した再生可能エネルギーへの移行を進めるべきだと語った。オノさんは、日本と同じ地震国であるアイスランドで地熱発電を身近に感じるようになったという。

 アイスランドはエネルギーの80%を地熱発電と水力発電でまかない、暖房や給湯の90%に地熱を利用。2050年までに脱化石燃料社会の実現を目指している。

 オノさんは日本には温泉が豊富にある点に触れ、地熱発電はひとつの解決策に過ぎないかもしれないが、安全で汚染や公害もなく、最適なオプションで「目の前にあるのだから使えばいいだけ。一番安全だと思う」と話した。

「アイスランドではかつて石炭が使われ、街中が汚れていた。しかし、不況に襲われて石炭を購入できなくなり、地熱を使うことを発見した。1930年代というかなり前にです」

 オノさんは、アイスランドは街が美しいだけでなく、石油産業の周辺にいる人びとに依存していない点が素晴らしいと話し、世界の皆がそうできると述べた。

■広島、長崎の悲劇から再生できたのだから…

 アーティストであり、ミュージシャンであり、長年、平和活動家としても知られるオノさんは今回、第8回ヒロシマ賞を受賞。広島を訪れた後、長崎も訪問した。

 戦後同様、日本は再起できると語るオノさんだが、戦後と違い、今回は世界が日本を思いやってくれているという。「3月11日の後、私はニューヨークにいたが、欧米から日本に向けられる驚くほどの敬意と温かさを感じた」

 戦時中はまだ子どもで日本にいたオノさんは、広島・長崎、そして日本全土がいかに再生したかを覚えていると話す。「本当にひどい状態だった。東京で家を持っていた人なんてほとんどいなかった。すべてが破壊された。でも日本は、経済的な意味で素晴らしく繁栄した国として蘇った」

 最後にオノさんは日本にエールを送った。「(戦後の)国民は不満を口にせず、ただやり遂げた。それが、とても日本人らしい。それを成し遂げたことに誇りを持ってほしい。日本は、再び蘇ることができると信じて」
(c)AFP/Frank Zeller http://www.afpbb.com/article/entertainment/entertainment-others/2818842/7607697

なお、オノ・ヨ―コの作品「光の塔」(アイスランド)の紹介は下記URLでYoutube画像で見られます。
http://www.youtube.com/watch?v=kQtOOni7MJE

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2011年09月17日

秋の楚人冠邸オープン

杉村楚人冠邸が今秋11月から記念館として一般に公開される。
ご遺族の方から貴重な歴史的資料が含まれる6000点余が市に寄贈された。その中から、幸徳秋声の同棲相手で同じく検挙された菅野スガが獄中から、幸徳の無実を晴らすよう弁護士に頼む旨の針文字書簡(一見白紙と思わせるが、明りに針穴をかざすと文書になる)が楚人冠宛に寄せられていたとの新事実が発見されたと新聞にも発表(2010年)され、話題になったた。

当時、治安維持法の下、1925年から1945年の間に日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。この法律は、戦争が終わってしばらく効力を持って逮捕を続けていたもので冤罪による拷問も多く行われていたと言われる。小林多喜二の例などもその一つとして知られて、多喜二とも親しかった志賀直哉も日記に触れている。

明治43年6月22日付けの時事新報で、報道された横山勝太郎弁護士宛てのもう一通の針文字と一致するものだと言われる。この針文字について、横山弁護士は、刑務所の検閲印がないから“にせもの”である、と断じていた。しかし、断定は出来ないが、楚人冠宛の針文字が出てきたということは本物説が強くなる。我孫子に来る以前に、楚人冠は大森に住んでいたがそこへ届けられたものを我孫子に転居(関東大震災の影響で)した時にも捨てずに保管していたということになる。これらの資料は既にマイクロフィルム化されて我孫子市教育委員会文化課で閲覧できるようになって、一般に公開される秋に向けている。大逆事件から100年の折に、近代日本ジャーナリズムの先駆けと言わる楚人冠邸が公開され、我孫子は話題の秋を迎えることになりそう。

楚人冠の研究者であり、我孫子市教育委員会嘱託職員である小林康達著の『七花八裂ー杉村広太郎伝』のあとがきに、病床で日本の敗戦のことを聞いた折に、楚人冠は「これでよかった」と家人に言い遺したと結んでいる。

針文字の書かれた紙大逆事件.jpg
 
 杉村縦横宛管野須賀子名の針文字書簡

       封筒表 京橋区/朝日新聞社内/杉村縦横様 〔右隅〕前社屋
   消印  牛込/43611/后12
   同裏  緘 六月十一日(差出人の住所氏名はない) 拝

         本文 (一枚の半紙に針文字で書かれている)

           京橋区瀧山町
    朝日新聞社
     杉村縦横様
      管野須賀子
               爆弾事件ニテ私外三名
   近日死刑ノ宣告ヲ受ク
   ベシ御精探ヲ乞フ
   尚御幸徳ノ為メニ弁ゴ士
   ノ御世話ヲ切ニ願フ
          六月九日         彼ハ何ニモ知ラヌノデス

*杉村広太郎は、楚人冠の他に縦横など20余りの筆名をもっていた。



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2011年09月16日

野田首相と松下政経塾

千葉県では、長らく金権風土を象徴するようなスキャンダルが相次ぎ、中央でもロッキード事件などが日米間でも政治と金の癒着が起こり、国民は政治にうんざりしてきました。

野田首相は、3歳半の時に政治家の存在を意識したものの、上記のような世相で、ジャーナリスト指向に向かいつつあり、偶然から松下政経塾の門をたたき一期生になりました。当時、松下幸之助の直言を聞く幸いもに恵まれ、志高い塾生と切磋琢磨する機会を得ました。

あるとき塾生の1人が、例のホトトギスの故事に倣って塾長の生き方を問いました。信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」と言いました。秀吉は「鳴かせてみせよう」と答えました。家康は「鳴くまで待とう」と言いました。塾長ならばどの生き方を選びますかとの質問に、松下塾長は即座にこう答えたというのです。「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」。この間髪を入れない回答に、鳥肌が立つような感動を覚えたというのです。

また、ある塾生が、「政治家は当選後に何をやるかが重要であって、選挙はいわばなりふりかまうことなく勝てばいい」と主張しました。このとき、松下塾長はこめかみに青い筋を浮かべて、烈火のごとく怒られた。「当選するために何をやってもいい」という発想はおかしい。選挙のやり方によってその後の政治活動は規定される。だからまず選挙のやり方を変えないといけない。塾長はこのように熱く語りました。

世のため人のために役に立とうという気持ちを「志」とするならば、松下塾長の熱い思いに触れ、個性豊かな塾生たちと切磋琢磨した経験が、野田の志の原点だというのです。これらの出会いは、「お会いできて良かった」「会わないほうが良かった」程度では済まない、生涯を通じて何らかの回答を迫られる出会いだと考えています。

志の実現には、野田は2つのことが重要だとし、第1は「コツコツ」、第二は「プッツン」だとしているのだそうです。つまり、毎日あきらめずに粘り強く活動を継続し、思いきりやること。野田が継続し実行して有名なのが、毎朝の船橋駅での演説活動でした。20年以上にもわたるそうです。私も市議当選以来、毎朝に駅頭演説活動を続けましたが、県議選出馬でバッジを外すまでの約7年半でしたから、20年超を継続するのはやはり尊敬の念です。

野田氏は、最初から無所属で県議選に出馬、55年体制打破を目指して国政初挑戦するなど、従来のやり方を見るまでもなくプッツン(宇宙人と言われるのと通ずる部分か)しながら、最近の民主党代表選でも躊躇せず、しかし確実に階段を上った。野田のいうところのプッツンしながら、奮起、より大きな高い壁に挑んできたのは、みごとでした。今後も「コツコツ」と「プッツン」を繰り返しながら、志の実現を目指し、決意を実現していくのが野田流なのでしょうから、確実に結果をだしてほしいです。組織、政党を守るためではなくて、日本国民の未来を守ってほしいもノダ!!

そして、金権千葉を払拭して、新たな千葉の政治史に塗り替え、首都圏初の女性知事を生んだ以上の千葉に、この際は、なっていほしいです。私たち千葉県民も、津波、液状化、放射能汚染からの復興をかけて、グローバルな競争にも勝ち抜き、正しい道を目指さし、子供たちに恥ずかしくない未来を守る姿を見せなくてはなりません。女性も、男性も、子供も、お年寄りも皆が幸せになる未来に向かって結束していくべきです!

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松下幸之助は、実業家として成功を収めた、その晩年に次代の国家指導者を育成すべく70億円もの私費を投じて公益財団法人・松下政経塾(神奈川県茅ヶ崎市)を設立しました。現在は幸之助の遺産の利子や運用益を財源として運営されています。

開設当初より、在学中または就職中でない22歳以上35歳以下の青年が対象、所定の選考に合格した者のみが入塾を認められことになっていました。在籍中は毎月20万円の「研修資金」が給付されるほか、各自の活動計画に基づいた「活動資金」が別途支給されるのです。研修カリキュラムは政治学・経済学・財政学などの専門的なものから、茶道・書道・坐禅、伊勢神宮参拝など日本の伝統に関する教育、さらには自衛隊体験入隊・武道・毎朝3kmのジョギング・100km強歩大会といった体育会系的なものまで幅広く用意されているのでした。

現職の政治家である卒塾生は2010年8月30日の時点で衆議院議員31名・参議院議員7名・地方首長10名・地方議員24名の計72名に上ります。多くは二大政党である民主党・自民党のいずれかに属し、現在では特に民主党に多くの卒塾生が所属しており、同党内では右派に位置する勢力として、党のスタンスに一定の影響を及ぼしています。かつて多党制の時代には、民社党、日本社会党に所属した地方議員もおり、現在でも公明党に所属する地方議員がいます。

全体的に右派色が強い傾向にある卒塾生にとって、55年体制下で思想的に距離が近い政党は基本的に自民党か民社党に限られ、自民党は現在ほど候補者公募に熱心でなかったため後ろ盾のない卒塾生が公認を得ることは難しく、また民社党は多くの候補者を立てるだけの力がなかったため、当時は卒塾生の受け皿になる政党がない状態が続いていました。

世襲候補として当然に自民党の公認を得られた一期生・逢沢一郎はむしろ例外的な存在でした。1990年の第39回総選挙では逢沢に続けと数名の卒塾生が出馬したものの、その大半は政党の公認を得られず、結局逢沢以外の全員が落選していました。政界再編期に入ると日本新党・新生党・新党さきがけと言った保守系新党が卒塾生の受け皿として機能するようになり、1993年の第40回総選挙で卒塾生の国会議員が大量に誕生することとなりました。特に大量の新人候補を擁立した日本新党から出馬して当選するケースが目立ちました。

その後、卒塾生らによる新党構想の一環として「志士の会」が結成されるなどしたものの結局頓挫し、卒塾生の大半は新進党から民友連を経るコースで民主党に合流。さきがけなどを経て旧民主党の結成に加わったのは前原誠司・玄葉光一郎など少数に留まっている。また高市早苗や伊藤達也など、非自民政権構想に見切りをつけて自民党に移籍する議員も見られた。

1992年(平成4年)宮沢改造内閣で1期生逢沢一郎が初の政務次官(逢沢は初の国会議員であり、また幸之助が多額の寄付をして松下記念図書館を寄贈した慶應義塾大学工学部出身)、2002年(平成14年)の小泉改造内閣において5期生伊藤達也および高市早苗が初の副大臣、2004年(平成16年)の第2次小泉改造内閣において伊藤が金融政策担当の内閣府特命担当大臣として同塾出身者で初入閣。次いで高市が2006年(平成18年)の安倍内閣で沖縄及び北方対策・科学技術政策・食品安全・イノベーション・少子化対策・男女共同参画担当の内閣府特命担当大臣で入閣しました。2005年(平成17年)には第8期生の前原誠司が民主党代表に就任、初の野党第一党の党首および初の総理大臣候補となっています。2009年(平成21年)の鳩山内閣では、国土交通大臣に就任した前原や総務大臣の原口一博などを中心に計8人の出身者が大臣・副大臣・政務官などで入閣。2010年(平成22年)の菅政権では、留任の前原・原口に加え、玄葉光一郎が政調会長、樽床伸二が国対委員長、福山哲郎が官房副長官、野田佳彦が財務大臣など、政権中枢の要職を政経塾出身者が占めました。

2011年8月29日、1期生の野田佳彦が民主党代表に立候補、当選、承認。翌30日に国会で第95代内閣総理大臣に指名。これにより、松下政経塾出身者から初の内閣総理大臣が誕生しました。



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2011年09月15日

東電成田支社、有機農家が東電に申し入れ

有機農業が盛んな千葉県の北総地域の有機農家等30人が8月30日、福島第一原発事故によって2割から5割の売り上げ減少したとして、東京電力成田支店に損害賠償請求書を-提出しました。
 
今回の賠償請求は、3月から7月までの5ヶ月分で16の農家と出荷団体の減収など、およそ1億34万2千円。また、今後、原発事故の結果生じたあらゆる被害を補償するよう-申し入れをしました。
 http://www.youtube.com/watch?v=V3J6xB_HAnc&NR=1

このあと、成田市長の小泉一成市長のもとを訪れ、有機農家としての取り組みが出来なくなったなどの被害を訴え、実態調査を行うとともに食品や土壌の測定体制を確立するよう求めました。

「有機農家で誇りをもってやったきたが、この事故で100%安全だと胸を張れなくなって辛い。」
「農家になったばかりの若い農業青年も前途多難となった。」
「このうえは自然の再生可能エネルギーに転換して欲しい。」
「まず、東電は農家を回ってお詫びをするべきだ。」
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2011年09月14日

千葉で放射能汚水を排水、停止へ

千葉県は 市原エコセメントに放射能排水の停止や改善を求めていたことが、わかった。 1カ月以上も基準値を超えていると知りながら県に報告せず、海に排水していたことについて、同社は「うちのような施設まで基準値が適用されるとは思っていなかった」と話している。
市原エコセメントでは、放射性セシウムを吸着するゼオライトを使った排水処理や、1キログラム当たり2千ベクレル以上の濃度の廃棄物受け入れ停止などで対応していた。
  横浜市でも、似た問題がおきて住民が反対運動を起こしていた。

 費用をかけて産業廃棄物として処理するにしても、「受け入れ業者を探すのは困難」と担当者。「建屋内では保管できない。敷地内もあまり余裕がなく、保管するのにも限度がある」と話す。

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汚泥焼却灰の搬出できず自治体苦境、放射性物質検出で業者受け入れず/神奈川
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1105270016/


神奈川県管理の下水処理場4施設は、汚泥の焼却灰から放射性物質が検出された今月9日以降、施設内で焼却灰を保管。しかし、そのうち相模川流域左岸処理場(茅ケ崎市柳島)は約10日間で満杯に至った。急きょ、焼却灰を大型の土のうに移し替えて屋外に運び、シートで覆う措置を取っている。

 また酒匂川流域右岸処理場(小田原市扇町)も限界に達し、焼却炉の地下に移し替えた。残りの2施設も数日中で保管スペースがなくなる見込みで、県は「本来焼却作業を行っている委託業者が、焼却灰の詰め替えも行うなど、すでに仕事に支障が出ている」と困惑する。

 横浜市も焼却灰を市内に2カ所ある汚泥資源化センターに保管。1日約40トン発生する焼却灰のうち、改良土の生産に半分ほどを使っているが、残りの半分はセンター内にため置き、あと12日ほどで満杯になると試算する。川崎市は市内4カ所の処理場から入江崎総合スラッジセンター(川崎区)に下水汚泥を集約し、焼却灰に処理。1日に10トン前後の焼却灰が出るが、同センター内に保管できる量は約235トン分。26日現在、保管量は約135トンに上り、今後10日前後でいっぱいになるという。

 横須賀市上下水道局の下町浄化センター(同市三春町)では、焼却灰搬出がストップ。3基ある焼却炉のうち90トンを処理できる焼却炉1基は焼却灰をためる部分が満杯になり、稼働できない。40トンと50トンの処理能力しかない残りの2基で処理するなど、作業にも影響が出ている。


 
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2011年09月13日

「So much for 論争」

 杉村楚人冠は、夏目漱石、柳田國男らと東京朝日新聞社の同僚だったことがあった。楚人冠の方が瀬石より5歳年下だが、朝日入社は楚人冠が1903年(明治36)、漱石が07年(明治40)で、楚人冠の方が先輩だった。

楚人冠は、明治39年1月の朝日新聞の記事で「近刊の「ホトトギス」を読む。夏目漱石の「我輩は猫である」愈出でて愈拙し。此篇初めの程こそ着想行文共に天下の逸品たるを得たれ、近頃は次第に調子に乗り過ぎて下らぬことを長々とだらしなく書き延ばすの外格別の能なきを見る、惜しむべし・・・」と酷いことを書いた。漱石が朝日新聞社に入社することになろうとは後楚人冠は思いもせずだったが、英国に赴任している間に漱石が入社した。英国から戻って、楚人冠は漱石と社内顔を会わせたが、その時の気持ちを楚人冠は漱石の「猫」を批判したことを思い出し、“内心頗る安からぬ思い”だと後に述べている。

しかし、それはそれで、社内の中では英国での経験など共通するところが多く、こうした出会いではあっても、互いの家族を思いやり、親しく付き合った。漱石の入社以来、二人は月2,3回の編集会議の後、昼食をしながら歓談していた。

互いに、関心を持ち、心おきなく議論もしあったが、傍目には反目していると誤解されていたようだ。実は気心が知れているから自由に意見を交わせると信頼し、互いの意見を紙上で論じてあった。ある時、『英語青年』という専門雑誌で二人の英語論争も話題になったが、互いに気心の知れた漱石と楚人冠だったので、それぞれの論拠を示しながら、結果的には楚人冠の英語力に軍配が上がったなどということもあったということだ。楚人冠と柳田国男の鳥にまつわる応酬についても、後日にご紹介したいと思う。


ご参考までに、論争の経過とその結果については、曾根博義氏の論文に詳しいので下記に転記します。
「・・・・ 明治44年6月15日発行の第25巻第6号に楚人冠は「再びSo much forに就て」なる一文を寄せ、「前号には一応夏目君に負けて置いたが其後となつて大分僕の解釈に有利な用例やら議論やらに接した、だから此処に約の如く捲土重来と出かける」と前置きして、自訳が正しいという証拠を四つあげた。第一に「So much for his educationしつけが悪いからです)」というような用法が会話のなかにはしばしば使われていること、第二は某英人はロイド教授のあげた『ヘンリー八世』の用例はごく日常的に使われた「So much for Sugimura」の出所典拠としては不適切であること、第三に同じ英人はルース嬢の解を正しいとしたこと、第四にイーストレーキ博士の令嬢マリーもルース嬢とほとんど同じ解釈をしたこと、以上の四つである。
 どうやらこれで漱石・楚人冠の「So much for」論争の決着はほぼついたように見える。『英語青年』のこのあとの号を見ると、専門の英語学者たちがこの論争を問題にして二、三の文章を寄稿している。明治44年8月15日発行の第25巻第10号掲載の花園兼定「Vanity Fairに於ける”So much for”」は同書第二章から漱石訳の用例を挙げている。しかし論争に止めを刺したのは、半年後の翌45年1月1日発行の第26巻第7号に発表された市河三喜「So much for の意義に就て」であった。前置詞forについて千枚に垂んとする卒業論文を書いたといわれる英文法学者の市河にとってさえ、楚人冠訳のような用法は「当時、浅学なる余には全く新しい用法であつた、そこで早速書を送つてLawrence教授に糺した」というほどだから、楚人冠の英語力は大変なもので、漱石が知らなかったのも無理はないということになる。Lawrence教授の返事によって楚人冠訳のような用法が確かにあることを知った市河は、Thomas HardyのTessのなかに漱石訳と楚人冠訳の二例があることを確認した上で、「So much forには次の二つの異なった意義があることを認めなければならない、という結論に達した。
1=that is all that need be done or said about.
 2= that is all.....is worth;......has come to this.
 いうまでもなく、漱石は1
、楚人冠は2の解釈を選んだわけだが、当該のイ―ストレーキの書簡の訳としては楚人冠の方が正しかったということになる。ちなみに当時は漱石も市河三喜のような英文法学者も2の用法があることは知らなかったようだが、今日ではどんな英和辞典にも二つの用法が明記されている。
・・・・・」
 
http://www.chs.nihon-u.ac.jp/institute/human/kiyou/66/H-066-002.pdf

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2011年09月12日

杉村楚人冠の落馬碑

八幡平トロコの国道341号脇に杉村楚人冠にまつわる「落馬碑」があるという。当時の楚人冠は、落馬しただけで石碑が建てられるほどの人だったということだ。

碑を作るなどは、どれほどの意味があるかと思う時もあるが、これなどは後々に語り継ぎたいとの多謝の念が感じられ、楚人冠ゆかりの我孫子としても嬉しいことではないかな、と思う。これからは経済だけでなく、日本は文化・歴史を大切にする観光の時代へとシフトする必要があると言われている。後世にもその時代の人々の想いが伝えられる記念碑として紹介しておきたい。

落馬事件の事の起こりは、1934(昭和9年)、八幡平高原と温泉郷の宣伝に努めていた関直右衛門(宮川村)が、近隣の村々とも相談し、湯瀬ホテルにおいて朝日新聞社の秋田・青森・岩手の販売大会が開催された。後に衆議院議長となる石井光次郎(営業局長)や重役幹部含めて120人ほどのところに楚人冠も呼ばれて出席、ほとんどは翌日十和田湖を探勝して帰った。しかし、楚人冠には、後の秋田市長となる武塙三山(当時秋田魁新報編集長)たちが、平原で女も子供も登れる山、誰でも歩ける山があるので書いて紹介してほしいと話した。

東京朝日新聞社の記者・楚人冠は、既に名文家として有名で直右衛門らが、どうしてもと頼み込んで、八幡平へ登ることになったのだという。楚人冠は、7月13日ホテルを出発して自動車で坂比平まで行き、そこからは先は馬でしか行けないというので乗馬した。ところが、トロコという処で馬の交換のため降りようとして鐙(あぶみ)に足をとられた。楚人冠は真逆さまに転落、左手骨折という「落馬事件」になってしまった。柔道三段の石井局長の応急処置を受けて戸板で下山、坂比平で待機していた「永田のセガリ」 (整骨師)の手当てを受け休養、翌日から湯瀬ホテルで静養することになった。

大変な目にあった楚人冠だが、「週間朝日」にすばらしい美文の八幡平紹介レポートだけでなく、登山の途中、トロコ温泉付近で落馬し、腕を打った顛末も書いた。「落馬記」「傷害保険」「落馬余録」「報謝行」と題し、「アサヒグラフ」などにも連載した。この落馬が思いがけない宣伝になり、又これを治療した(大字八幡平)永田の整骨老人と共に文にもなって有名になってしまった。楚人冠の記事によって、国立公園指定の側面援助の目論は地元各方面でも理解され大賛成となった。この記事のお陰で行きにくいにイメージになる奥羽アルプスなどの呼び名も消え、皆に親しまれる八幡平になったという。

登山の途中、馬から落ちて腕を折って、思い出すにも不名誉な出来事ではあったが、楚人冠の名を刻んだ落馬記念碑が建てられることになり、楚人冠はこの記念碑の除幕式に自ら進んで出席しというのだ。著名人として、楚人冠落馬のエピソードは大いに八幡平のPRになったのです。

楚人冠no落馬碑.jpg

  我行荒草裏 

  汝又入深林 

  楚人冠書
 

    昭和10年(1935)8月27日、宮川村関直右衛門建之。
  
  所在地:落馬記念碑/八幡平トロコ


その折の随筆を「八幡平再挙」除幕式・天下の珍湯 − フケの湯・八幡平の頂上・八幡平の谷地と谷地目・後生掛から焼山越・八幡平の勝景とその発見者・玉川温泉とその付近として写真付きで掲載、いよいよ八幡平は一挙に全国に紹介されていくことになった。それほど楚人冠効果は大したものだった。しかも、この話はそれだけに止まらず、国内はもとより海外にまで「湯瀬発、楚人冠八幡平で落馬」と報道された。海外特派員としての経験も知れ渡っていた楚人冠なので、秋田県八幡平と湯瀬は楚人冠の落馬は口々に天下に知れわたることになったのだった。

 
確かに、楚人冠は我孫子でも景観を保全のために活動していたが、フィッシングセンターばかりでなくゴルフ場や遊園地(ディズニーランド計画)を兼ね備えた観光地として手賀沼が整備されることも期待していた。欧米諸国への駐在時代に、世界の景勝地も見て回り、紀行文作家として観光地の意義も良く知っていたのだろう。

「楚人冠落馬碑」の存在に目を留めた人がブログで紹介してくれたおかげで、そんな知名度が高い張りだこ楚人冠の気さくな一面を碑の存在で改めて知った。

なお、八幡平(秋田県鹿角市)に伝わる民俗芸能「大日堂舞楽」は重要無形民俗文化財の第一回指定を受け、最近ではユネスコの世界無形遺産にも指定(2009年)されているとのこと。
http://blog.livedoor.jp/kazuno2009/archives/1246090.html 

 (上記ブログより、記念碑の写真を転載。)楚人冠の口上を聞く
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2011年09月11日

9.11 反原発デモ

マスコミが取り上げない話がメール、ツイッターで伝えられることも・・・

----- Original Message -----
Sent: Sunday, September 11, 2011 23:06 PM
Subject:「反原発」新宿デモの映像を世界に情報発信!


9月11日午後に東京新宿で行われた「反原発」デモには、若者を中心に中高年、家族連れ、外国人を含めて1万人(主催者発表)が参加しました。ところが警察はデモ参加者17名を「公務執行妨害」容疑で逮捕したのです。一方、右翼系集団が10時から様子見に来ていて、公園内に入ってきて、ハンドマイクで騒いだり、運動潰しに一生懸命。20台以上の右翼の宣伝カーと、「日の丸」やハンドマイク持ってきた連中が妨害や挑発、いざこざを起こそうとしていたが、デモ参加者はきちんと訴えようとデモ行進を続けました。

デモ潰しもなんのその、「ベビーカーの子どもも泣かず、頑張りました! 脇道から宣伝カーがデモ隊に突っ込んできましたが、誰も騒がず、毅然としてデモをやりました(この脇道だけなぜか警備がいなかった)。アーティストのみなさんも、楽器の移動など、全部やってくれて、スタッフとして活躍してくれた。それぞれ、ステキな音と話を聴かせてアピールした。」

「原発は要らない」「子どもを守ろう」と訴え、プラカードを掲げ太鼓やホイッスルを鳴らしながらの全く平和的なデモ行進であるにもかかわらず、警備の機動隊員は「早く歩け」「間を詰めろ」「ゆっくり行け」「進むな」「隊列から離れるな」「隊列へ加わるな」「広がるな」「4列になれ」「交差点だ、止まれ」「交差点だ、早く渡れ」「旗をたため」「解散しろ」「騒音を立てるな」などと命令し、過剰警備で、デモ参加者を威嚇し続けたのです。

デモの模様をYoutube映像(4分41秒)に掲載し、20の主要外国語に訳してTwitterとFacebookで世界に向け情報発信しました方がいるので、下記をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=KsrVNX_DTBU&feature=player_embedded

このような平和なデモに対して過剰な警備態勢を敷き、デモ参加者を脅し逮捕する「警察国家日本」の現状を、日本国内だけでなく世界中の人々に知らせる事にもなります。つまり、デモの参加者を逮捕しようと待ち構え、脅かすのは、デモに参加すると逮捕されるという恐怖心を国民に植え付けようとし、「反原発」運動が拡大しないようにするためなのはありありじゃないですか。

日本の警察は、日本国憲法が国民に保障する「集会と表現の自由」(第21条)を白昼堂々と侵害し国民を弾圧してるに等しいのです。

日本国憲法第99条には「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と

規定されています。つまり、警察も公務員の一つであり、守るべきは国民であって、国家権力ではないのです。

警察の違法行為に異議を申立て、国民の「集会と表現の自由」を守り、デモに圧力をかけるのを辞めさせましょう。国民を守る義務を負い、国家権力が暴走しないように努めるのが筋のはずだとわきまえて欲しい。彼ら「公僕」は権力の刀になって国民に刃を向けてはいけないのです。

デモを取り締まるなどは「憲法違反」の行為であり、「逮捕者の即時釈放」すべきです。 
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2011年09月10日

「牧場の朝」はフクシマだった

 ♪ ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海…と歌われる「牧場の朝」 (←クリックするとNHK番組に作詞・楚人冠とあり、歌が聞けます♪)。
その牧場とは、福島県岩瀬郡鏡石町の岩瀬牧場だったとわかってきた。我孫子との関係性がないようだた、実は、その原詩は杉村楚人冠であったとなれば少し気になる。

この有名な小学校唱歌、作曲者は1947(昭和22)年発行の教科書から船橋栄吉と明らかになっていたのとは対照的に、作詞者と歌の舞台がどこかが長年不明のまま探し続けらていた。その後、1973
楚人冠が書いた紀行文「牧場の暁」(『中学国文教科書 第二』(光風館書店、1918年)に所収)が発見され、それを契機に楚人冠が作詞者ではとの説が浮上、若干の曲折を経て現在ではこれが定説とされている。

杉村楚人冠は海外の外遊見聞で一世を風靡する随筆を書いて著名な人物であったので、あちこちに引っ張りだこでもあった。1910年(明治43年)に、楚人冠が朝日新聞連載ルポ「牧場の一夜」の取材のために、明治初期に開拓された宮内省の元御料牧場・福島県鏡石町の岩瀬牧場に画家河合英忠と共に数日訪れ、この日本初の御料牧場を見て回り、それをもとに書かれたのだと状況証拠が揃ってきた。ご子息にも問い合わせて、そういえば愛唱していたとの話も具体的になり楚人冠・作詞説が特定されたのだとういう。なんとも浪漫をもたらす楚人冠らしい秘話ではないか。東北大地震の影響は風評被害で酪農家が大被害を被るが、そんな時に下記の記事(神戸新聞2003年)を見つけたので紹介したいと思った。

http://www.kobe-np.co.jp/rensai/funahasi/12.html


※にちなみ、杉村廣太郎(実名)が「楚人冠」を名乗るのは、『史記』の「項羽本紀」の逸話が元になっていて、
嘲って、「人言、『楚人沐猴而冠耳』。果然」と語ったという。


   「人の言はく、『楚人は沐猴(もっこう)にして冠するのみ』と。果たして然り」

   「『項羽は冠をかぶった猿に過ぎない』と言う者がいるが、その通りだな」。つまり、威陽に入城した項羽がの王宮を焼き尽くしたことをあ  
   る者が“項羽は英雄の器ではない、楚の人(項羽を指す)のことを衣冠を身に着けた猿、みっともないなと)

明治32年~36年(1899~1903)米国公使館の通訳となっていた頃から楚人冠と号するようになったと言われている。当時の公使館の職員はシルクハットを常用していたが、白人とは別の帽子掛けを使用させられるという差別的待遇を受けた。シルクハットを入れた箱をよく間違えるので、目印を“楚人冠”として「自分のような野人がシルクハットをかぶっているのは滑稽だ」という皮肉とユーモアをこめで、史記の故事にならって名乗るようになったのだという。縦横の他20程の筆名を号していた。随筆家、俳人としても著名


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2011年09月09日

コリンヌ・ルパージュ、「福島からの報告、そこでは沈黙と嘘が住民を殺す」

海外メデイアはフクシマについて、独自の調査報道や客観報道に力を入れています。
フランスの元環境大臣コリンヌ・ルパージュ女史(現カップ21代表)が最近福島を訪れ見聞した報告記事がフランスのインターネット新聞「Rue89」に掲載されたというので日本語に訳してくれた方がいます。ぜひ、多くの「賢明な国民」に届くようにと情報拡散を希望していますので、よろしくお願いします。

ルパージュ女史は、特に「福島原発事故は終息に向かっている」という大手マスコミの嘘に、日本でも、フランスでも騙されていると指摘し、フクシマの事態は終息どころか悲劇的に進んでいると警鐘を鳴らしています。

corinne.jpghttp://www.rue89.com/corinne-lepage/2011/09/02/de-retour-de-fukushima-ou-le-silence-et-les-mensonges-tuent-220331
(2011年9月2日 仏インターネット新聞「Rue89」)


すでに数週間前から、福島原発事故の危機はすでに現実的な問題ではなくなっている。

大多数のフランス国民は、問題はすでに解決されており、東電と汚染水処理を担当するアレバ社は完全に事態を掌握していると思っています。

避難すべき住民はすでに避難しており、放射能の測定値は低下し,フランスから見ると日本は原発を間もなく再開するように見えます。

フランスの原子力ロビーから情報提供されたフランスのマスコミは、この原子炉、あの原子炉が間もなく再開されるだろうと報道しています。しかしそれらは悲劇的な嘘なのです。

数百万平米の水が汚染されている


まず第一に、私は環境大臣、環境副大臣、福島県副知事にお会いしましたが、彼らは「危機は去っていない。何も解決していない」と言っていました。正確な情報は非常にまれなのです。

日本の行政当局は「3つの原子炉の炉心が溶融し圧力容器を貫通したこと」を認めています。

しかもいまどのような状態なのか分からないのです。

特にもっとも肝心な点である格納容器が溶融した核燃料で穴が開いたかどうかさえも分からないのです。

もしも格納容器に穴が開いていたとしたら、必然的に地下水は放射能に汚染されたことになります。

グリンピースは汚染水の処理に関して、処理はたった今始まったばかりと言っています。

日本の行政当局は誰も話したがらない放射能に汚染された汚泥が増え続けていることと数百万トンの汚染水が貯まっていることを認めています。

放射能測定器が空港で止められている


二つ目に心配なことは、福島地方に居住している家族が文字通り悲劇的な状況です。

私は断固とした決意をもって闘っている女性達が率いる数百家族が集まっている市民団体と2時間話をしました。

彼女たちの言う事は十分理解できます。

彼女たちに起きたことはかつて私たちがチェルノブイリ原発事故の際に遭遇した事と同じなのです。

大地震と大津波が襲ってきた時全てが混乱していました。

日本の気象庁は福島原発事故が起きた時の風向きを表示する地図を提供できませんでした。

住民は風がどの方向から吹いて来るのかがわからなかったのです。

住民には何の避難指示も出されずヨードド剤も配給されなかったのです

汚染度に関する情報が公表されるまでに一か月待たねばならなかったのです。

40000個の放射線測定器が政治的な決定で東京国際空港にいまだ留め置かれたまま になっているのです。

家族達は毎日生活している自分たちの地域の放射線量がどの程度か知らないのです。

子供を心配する母親たち

食品検査に関して事前検査は行われていますが、検査結果は食品が流通した後に知らされているのです。

母親にとって一番の問題は子供たちの状況です。

国際原子量委員会(AIEA)加盟の日本を含めたすべての国は年間の許容放射線量を1ミリシーベルトと決めています。

原発労働者の年間許容放射線量は20ミリシーベルトです。

福島県内の原発近くに居住する人の年間の放射線量は5ミリシーベルトを大きく超え、所によると20ミリシーベルトになるのです。

彼女たちは子供たちのためと自分自身のために、1ミリシーベルトの環境で住める権利を要求しています。

問題は誰も彼女たちの質問に積極的に応じられる答がないことです。

より広い地区からの避難を考えるべき

考えられる二つの解決法は除染と良く議論されている避難です。

50cmから60cmの深さで土を掘って除染する訓練が行われています。

そのことで汚染レベルを下げることができます。

除染は狭い地域で実施すればそれなりの効果が出ると思われますが、福島県全体を除染することはできません。

そして考えるべきは二つ目の解決方法です。

希望する人々を出発させることです。

離れていく人がほかの地域でも生活できるようにすることです。

実際のところ日本の行政当局は、悲劇的なことですが、行政のやり方でしか行っていません。

住民には十分な情報が届かず本当の状況を知る手段は拒否されているのです。

農民は損害賠償されず

変化と技術的観点から、農業も例外とはならず行政当局の不作為によって犠牲にされています。

福島県は福島産の農産物の販売プロモーションを実施していますが風評被害に悩まされています。

私はかごに入った素晴らしい桃をお土産にもらいました。

この地区の農産物の大半は消費すべきでないことはもちろんです。

生産者は生活のため損害を補償されるべきなのです。

しかし補償はされていません。

日本が直面しているこの悲劇的な状況は、全ての工業国に対して同じ危険と同じ悲劇が生じることを示しています。

沈黙が日本を支配している理由は正確に言えばこのためなのです。

医師たちが独自のネットワークを立ち上げた

医者は語る権利がなく敢えて語る事をやめています。

小児科医のネットワークが現地にでき、農村部で医者達が住民の健康を守ろうと努力し、医学的フォローが始まっています。

しかしこれらの全ては市民によって行政とは別建てで組織されているのです。

原子力当局は福島原発事故による疫学的な影響に関する詳細で正確な結果は得られないだろうと決めています。

私たちが闘わねならないのはこの沈黙の壁なのです。

なぜならば、福島の子供たちはフランスの原発が立地するフェッセンハイムやブジェやブレイエの子供たちと同じ運命だからです。

大きな困難と現場で戦っている市民団体について、語り行動し支援することは私たちの責任なのです。

日本は脱原発になるだろう


政府当局は限界を感じたらしく真の決定すなわち脱原発を決定したように見えます。

57ある原発のうち現在14しか稼働していないのです。

(*訳者注:正確には全部で54基そのうち12基が稼働)

日本で今回大きな節電が可能となったのは様々な働きかけがあったからです。

たとえば、昼間各官庁では照明を消し(数日前京都で38度の猛暑の時でも)冷房を切っていたのです。

東京では大規模な広告の照明が切られました。

交替制で稼働する工業生産システムを様々に編成し直して驚くべき節電を達成したのです。

我々ヨーロッパ国民が2020年までに電力を20%削減するとしたら、日本の友人たちから多くを学ぶ必要があります。

新しく首相となった野田首相は民主党代表選の際、日本は今後新しい原発は建設しない、すなわち原発から脱却することを認めました

それはいつ?

再稼働するのか否かは2012年春までに点検のために停止する原発に課せられるストレステストの結果次第です。

(日本語訳・山崎康彦)
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2011年09月08日

山下俊一教授の訂正文

今までいろいろな所で、「100mSvまでは問題ない」と言っていた、“福島県放射線健康リスク管理アドバイザー”の山下俊一教授(長崎大医学部)がとして講演会を行った際のの動画の下に、下記のように訂正文を差込み、今さらあんまりだと批判の対象になっている。

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訂正:質疑応答の「100マイクロシーベルト/hを超さなければ健康に影響を及ぼさない」旨の発言は、「10マイクロシーベルト/hを超さなければ」の誤りであり、訂正し、お詫びを申し上げます。ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません。

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キャプチャ画像
山下責任逃れ.jpg



その講演会の動画と訂正文が入った動画を実際にご覧になれますので、クリックしてください ↓

http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23695




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2011年09月07日

弁護士会勉強会で語る、フクシマの現状

吉野裕之さんが語る、事故からのの半年
  フクシマの子どもたちや子どもを持つ家族が置かれている状況の報告
 (プロフィール:子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク。自身の3歳の子は京都疎開。5/20で前職は解雇、知合いがNPO職を斡旋、被災者避難・保養に取り組む臨時職)

日時:2011年8月26日19時〜
場所:日本弁護士連合会会議室
主催:福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク(SAFLAN)の総会

<映像前半>
原発制御棒が成功したとばかり聞いていたが、通常の家庭は当日はテレビは見られないで翌日知った。speedi のデータは15日に県庁に来ていた。給水の車がきて、一週間は食糧の行列、ガソリンがない。
我が子を止めていたのは申しわけないと思うし、止まっている子どもを何とかしなくてはと思う。どうしたらいいか、呼びかけをすると250人も親がくる、4つの分科会にして、行政が後手後手なので危険を覚悟で手作業で除染、国にかけあい20ミリシーベルトは酷いと思う。山下先生が大丈夫と言って全県を行脚、飯舘村でも外で遊んで大丈夫と子どものデータを取っている、大丈夫といわれた。「あなたはいいね、出ていけて、仕事しなくていいし、もう連絡しないでね。」と友だち関係がズタズタ。残るも出るも地獄。350キロ以上離れた方がいいと言われて、北海道、京都などの受け入れのあるところへ出ている。母子疎開。県の職員としては、各家庭で大丈夫というが、我が子は疎開させているなども現実にはある。
離婚が起きている、中絶してしまうと出生率低下、避難できない女子がどうなるか
ホールボディカウンターでドイツでは20,30分計る ベルリンの母の会(ドイツの先天性異常が捨て子を見守る) 
東日本全体が危険となっているのは、大きい声ではいえないが事実。ドイツ:大人8、子ども4ベクレルで白血病2倍。フクシマでは北海道、京都でも行かないと年間100ベクレル以内に収まらないのでは。サテライト疎開の申し出もあるが、文科省が積極的に対処ができてない。住民票を動かしていない。福島市は中学生まで無料、一年京都市営住宅に住めない。
行動力と判断力が高い人は既に出ているので、残っている人たちのリーダーがいないこと。残りたい、国の言う事を信じたいと思うお母さんは子どもの事が判断できないでいる。
http://www.youtube.com/watch?v=4lfvzmltvaw&NR=1
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2011年09月06日

原発ゼロの選択の国、オーストリア

IAEA(国際原子力機関)の本部はウィーンにある。しかしオーストリアという国には、原発は1カ所もない。  

 この国では伝統的に水力発電が主流だ。2009年の総発電量68974 ギガワット時の62,3% が水力で、33,9 % が火力で、2,9 %が風力・太陽光など再生可能エネルギー源で行われており、その他わずかな電力を輸入している。
 国民1人あたりの年間消費電力量は1569 キロワット時(工業用を除く)。今後は再生可能エネルギーによる発電をさらに推進する方針だ。経済家庭青少年省が3月に提出した新法案では、この分野への設備投資に1億ユーロを追加拠出し、輸入電力に頼らない、つまり間接的な原発依存から脱却する態勢を2015年までに確立する意向を明らかにしている。
 2020年までには再生可能エネルギーの割合を電力消費量全体の34%にまで引き上げ、エネルギー効率を20%高め、同時に温室効果ガス排出量を大幅に引き下げることが目標だ。

 とはいえ、オーストリアでも、これまでに他国のような原発建設の動きがなかったわけではない。

 1960年代以降、政府と電力業界では原子力発電の経済性に着目して原発建設への機運が高まり、71年には原子力発電の導入を決定、翌年ニーダーエスタライヒ州ツヴェンテンドルフ村に同国初の原子力発電所が着工された。76年にはさらに国内3カ所で原発が計画され、原子力を軸としたエネルギー政策への転換は着々と進んでいた。
 しかし、78年11月、完成していた原発1号機の稼動開始の可否を問う国民投票で、「反対」が50,47%で過半数を獲得、これに従って稼動が見送られたのである。保守派野党による反対キャンペーンも功を奏したが、それ以上に、国内はもちろん世界的に反核とエコロジーの市民運動が盛り上がっていたことが大きい。真新しいツヴェンテンドルフ原発は、その日から潔く“眠り姫”となった。翌年にはスリーマイル島原発事故が起こっている。 

 ツヴェンテンドルフ原発の総工費は90億オーストリアシリング(約6億5000万ユーロ)。今日までの維持費総額は約10億ユーロに上るという。既に採用されていた約200人の従業員は国内の火力発電所やドイツの原発へと転職していき、搬入済みだった核燃料は80年代までかけてすべて搬出した。
 思わぬ方向転換を強いられた電力業界は、79年から88年にかけて急きょ5カ所の火力発電所を国内に増設、需要増に対応した。その後の99年、連邦憲法律に「オーストリアで核兵器を製造したり、保有したり、実験したり、輸送したりすることは許されない。原子力発電所を建設してはならず、建設した場合にはこれを稼動させてはならない」の項が盛り込まれ、反核の誓いは不動のものとなったのである。


 こうした歴史をもつオーストリアが、福島の原発事故以降、世界に対して積極的に反核発言をしているのは当然だろう。事故後すぐに、経済家庭青少年省のラインホルト・ミッテルレーナー大臣は強い調子でコメントを発表した。  

 「日本の原発事故は、原子力発電が決して安全で持続的な発電手段でないことを露呈した。この脅威に対する正しい答えはただひとつ、原発の撤廃である。それがすぐに実現できないなら、しかるべき安全措置が講じられるべきだ。オーストリアはEU内の原発に対する“ストレス・テスト”と、その結果の公表を要請する」

 ストレス・テストとは、天災やテロを想定した原発の耐性審査である。EUの原発保有国は14カ国、圏内には計143カ所の原発がある。オーストリア1国が核を廃絶しても、陸続きの近隣国で事故が起こればお手上げなのだ。
 3月24・25日の両日に開かれたEUサミットでは前日にヴェルナー・ファイマン首相が現地入りし、テストだけでなく加盟国の“脱原発促進”も議題に盛り込むよう、バロッソ欧州委員会委員長に直接働きかけた。これは実現しなかったが、サミットの協議では加盟国がストレス・テスト導入で合意。6月末までにテストの実施条件と対象範囲を策定し、今年末までに各国で実施、結果を公表することが決まっている。

 しかし、英国やフランスなどの強い抵抗もあり、実際にはテストは義務でなく各国の任意で実施され、テストをクリアしなかった原発への対処も未決定となっている。原発の建設と運営は基本的に加盟国各自の判断とされており、EUは現時点では顧問的な役割にとどまっているにすぎない。

 しかし、ファイマン首相は「ヨーロッパで原発技術のリスクを公にすることは、許容されるだけでなく、市民が望んでいることでもある」と強調。今後も欧州委員会だけでなくユーラトム(欧州原子力共同体)などを通じ、積極的にEUおよびヨーロッパでの反核運動を推進する意欲を新たにしている。

 かつて原発1号機に「反対」を唱えた、すれすれの過半数。辛うじての選択が30年後のいま、当時国民が想像した以上の重みをもってオーストリアの国政を支えるだけでなく、国境を超えたヨーロッパ全土の反核活動を後押ししている。


http://webronza.asahi.com/global/2011032900001.html 

田中聖香  

筆者プロフィール
文化・社会・アートをテーマに執筆、在独ジャーナリスト。
関西学院大学文学部卒、ロンドン・スクール・オブ・ジャーナリズム修了。
一児の母。





ツヴェンテンドルフ原発跡地。ドイツの原発の研修などに使われている。
09年に電力会社EVNが太陽光発電施設を建設した(写真手前)、バイオマス発電も計画中=写真提供:EVN 




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2011年09月05日

ピンチをチャンスに

間もなく、大地震から半年となる。福島の事故は日本だけでなく、世界を恐怖に陥れた。偏西風のおかげで、当初の濃度の高い放射能は太平洋に流れていった。海にも低濃度だとはいうが放射能汚染された水を大量に流し、批判を国際社会からうけている。

こうして、四半世紀のうちに、ソ連(ウクライナ)と日本、スリーマイルで大事故を起こしておきた、この先、世界で原発事故が起きないという保証がどこにあるだろうか。原発ルネッサンスなど言われだして、世界中でどんどん増える勢いにあった。この際、原発事故は避けられないという前提を肝に銘じるべきだ。
世界中で原発の輸出合戦を始め、トルコやら、ベトナムやらまで原発が増えていくようになると、日本の隣国である中国も韓国も積極的に原発を建設していた。もしこれら隣国で事故が起これば、日本も放射能に見舞われることになる。

世界はあまりにも大きい原発のリスクをいよいよ正面から考える時に来た。50年も前の旧世代の技術に固執せずそれに代わる代替エネルギーはないのか探す時がきた。風力発電、天然ガスや波力発電、その他のエネルギー開発が議論し、流れを変えるチャンスと捉えて見直す時期だ。

今後、日本がとるべき道としては、今まで以上に地震・津波が起きるリスクが高まってきたのだから、福島原発の事故を教訓として、危険を孕んだ電力依存とは決別をしていくことだ。事故を起こした日本は、世界に誇れる技術力を生かして、21世紀に新たな安全と平和維持で世界をリードする国となるべきだろう。復興してみせて、日本の真価を世界に見せる。原発に代わる新しいエネルギー技術を日本が開発できれば、それは日本再浮上のカギにもなるだろう。

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2011年09月04日

 英国インディペンデント紙 「なぜ福島原発事故はチェルノブイリ原発事故より深刻なの か?」

2日午前、1年3カ月もの政権を担った菅直人首相が首相官邸スタッフらに見送られて官邸を後にした。花束を受け取った菅氏は「東日本大震災発生後は、皆さんのおかげでしっかり対応できた。」と笑顔であいさつした。 
初動対応の致命的な誤りで、3つの原子炉の核燃料がメルトダウン→メルトスルー、今後チェルノブイリより深刻な状況がどこまでになるのか実際は分からないというのに、「しっかり対応できた」との言には唖然とした人は多いことだろう。

世界の人に購読される「インディペンデント紙」では、最近のフクシマの状況を次のように伝えている。クリックすると動画も見られます。↓


  The Independent 2011年8月29日 の記事より
http://www.independent.co.uk/news/world/asia/why-the-fukushima-disaster-is-worse-than-chernobyl-2345542.html

                                       (日本語訳山崎康彦)


日本政府は核燃料のメルトダウンの重大さをなかなか認めようとしなかった。しかし今真実が暴露されて始めた。

相馬市からデビッドマクニールのレポートです。

市田良夫さん(53歳)は津波が自宅と友人たちを飲み込んだ人生で最悪の日3月11日をを思い出している。福島の漁師で地震が起きた時丁度船の中で入浴中だった市田さんは、あまりの激しい揺れで海に投げ出されそうになった。激しい地震の40分後に15メーターの大津波に襲われた。市田さんが港に戻った時、隣近所を含め全てのものがなくなっていた。「誰もこんなことは覚えておられない」と彼は言う。廃墟となった海沿いの相馬市で避難所暮らしをしている市田さんは、津波で100人の漁師仲間を失い悲しみに沈んでいる。しかし今漁師仲間と共に生活再建の努力をしている。彼らは毎朝廃墟となった相馬漁港の漁業共同組合の建物に集合して活動再開の準備をしている。そして放射能で汚染された海を見つめながら再開の日を待っているのです。「再び漁ができる日がいつか来る。全員がそれを信じている」

日本国民はこの天災かつ人災の危機から立ちあがってきている。しかし相馬市の海岸から40km南に位置する福島原発の3つの原子炉が核燃料のメルトダウンを起こしたことで、日本は今まで知らないそして予見できない領域に叩き込まれたのだ。

原発の北東方向には何百万の住民が核燃料のメルトダウンがもたらした放射能汚染下で暮らしている。いまだ存在しない納得できる放射能汚染の安全基準を模索している。専門家は放射能汚染の危険性について異なった意見を言い住民をうろたえさせている。

何人かの科学者は、福島原発事故はチェルノブイリ原発事故と同じ最高のレベル7だがチェルノブイリより重大だと言っている。その中の優れた科学者であるオーストラリアの医者で長年反原発運動をしてきたヘレンカルディコット博士は福島の「来るべき恐怖」を警告している。

欧州放射線リスク委員会(ECRP)の科学事務局長であるクリス・バズビー教授(アルスター大学)は、7月日本を訪問した。原発事故で今後100万人以上の死者が出るだろうと言って物議をかもす発言をしてきた人物だが、「福島原発はいまだ日本中に放射性物質をまき散らしている」「チェルノブイリは一週間で止まった。福島はもっと悪い」と言った。

「原子力フェンス」の反対側には原子力事業者と親しい科学者がおり「危機は管理されており放射能レベルはほぼ安全」と主張している。「政府と東電は最善を尽くしていると信じている」と東京大学工学系研究科関村直人副学部長は言っている。関村副学部長は当初原発付近の住民に対して「事故は想定外だった。冷静にしていてください」と助言していたがそれ以来彼の評価は逆転した。

政府の予測は静かに確実に悪化していている。先週金曜日、
原子力安全・保安院と協力関係のある科学者達は「福島原発から核時代を幕開した広島の原爆の168倍に相当する15,000兆ベクレルの発がん性セシュームが放出された」と発表した。

バズビー教授は「福島原発からの放射能放出は少なくとも広島の72,000倍多い」と言っている。

矛盾した情報の嵐に翻弄されながら、日本人は自分たちの知っているかがり火を本能的に探している。市田さんと彼の仲間たちは「福島原発は安全」と言う原発事業者や政府関係者をもはや信用していない。しかし、彼らは政府の放射能検査は信頼しておりいつかは海に戻れると信じている。

「それが間違いの元。政府関係者のウソや不作為や隠蔽はいつものパターン」と疑いをさしはさむ人がいる。先週、政府関係者は長い間批判者から言われてきたあること、すなわち事故を起こした原発近くに住む住民は何世代にわたって帰還できないだろ う、という事を認めたのだ。

「我々は長い期間住民が自宅に帰れない地域が存在するという可能性を排除できない」と枝野官房長官は言った。「大変遺憾なことです」

先週の金曜日、原発に一番近い双葉町と大熊町の住民がおそらく最後の機会として私物を取りに帰宅を許された。彼らはマスクと防御服を身に着け、原発から20km圏内の数百の家畜が死に太陽の熱で腐敗した状態の地域をバズで通過して帰宅したのです。自宅の台所とリビングの一部は自然に浸食されていたのです。「かつてここに住んでいたとは信じ難い」とある住民はNHKに語った。

 原発から北西方向に位置するいくつかの地域は避難命令で住民が避難して放射能のゴーストタウンとなっている。原発事故の後の数週間の間に大量の危険な放射性物質を吸収してしまったと多くの住民は信じています。「ここに戻れるとは思っていません」と、原発から約40km離れた飯舘村近くで米とキャベツの栽培と少数の牛を飼育していた庄司勝三さんは言 う。そこは避難指定地域ではないが、山に囲まれた地形で風と雨に運ばれた放射性物質が作物と水と学校の運動場を汚染したのです。若者や金持ちや母親や妊婦はすでに東京やほかの地域に避難しました。
政府が放射能安全基準を超えたことを認めたことで残った6000人はようやく避難したのです。

政府が畑をつぶし6頭の牛を殺し妻ふみさん(73歳)と共に20km離れた郡山市のアパートに移動するように避難勧告を出した時、庄司さん 【75 歳)のショックから怒りに変わった。「5年か10年で帰れるかもしれない。しかし楽観的すぎるとう人もいる」と庄司さんは泣きながら言う。
「たぶん死ぬためだったら帰れるだろう」

彼は東電から100万円(7900ポンド)と政府から35万円の補償金をもらった。

苦い論争を引き起こすのは避難地域外の住民の運命となった。原発から63km離れた福島市の保護者達は約10万人の子供たちを被曝から保護するように政府に要求をつきつけている。学校は子供たちがサッカーや屋外スポーツができる環境を要求してきた。学校の窓はいつも閉めっぱなしなのです。福島市に住んでいる祖母の佐藤真知子さんは言う。「私たちは自分で生活しろと政府に捨てられたのです」「本当に腹立たしい」

多くの保護者は子供を数百キロ離れた親戚や友人のところに非難させている。福島県民200万人全部を避難させるべきと政府に要求しているいる人もいる。

「彼らは避難できる権利を要求しています」と反原発の活動家で両親と一緒に働いているアイリーン・ミオコ・スミスさんは言う。「言葉を言い換えれば、住民が避難したいと思えば政府は彼らを支援することです」

少なくとこれまでは政府当局は避難する必要ないと言っている。政府の公式見解は、原発事故は沈静化しつつあり避難地域と”ホットスポット”に指定された地域以外の放射線量は安全なレベルである、というものだ。しかし多くの専門家は危機はまだ始まったばかりと警告している。

チェルノブイリ周辺の放射能の遺伝的影響を10年以上研究している生物学者のティムムソー教授は「福島の多くの人々は頭を砂の中に埋めている状態」と言っている。彼のチェルノブイルの研究では、放射線汚染地域内の生物多様性が減少し昆虫とくもの数が減りまた鳥の数が減り鳥の脳が縮小するなど、遺伝的欠陥がみられたとのことです。「本当のことを言えば、我々は長期間の影響に関する正確な情報を持っていない」と教授は言います。「しかし長期の放射線被ばくが健康に長期にわたる顕著な影響を与えることは確かです」とも言っている。

 相馬市の市田さんは「放射能に関する議論は全て混乱している」と言っています。「我々が望むすべては仕事に戻る事です。死に方はいくつもあるが、仕事がなく何もしないのは死ぬのと同じです」

経済コスト

福島: 日本政府は地震、津波、原発事故からすべてを再建するために1880億ポンド(約23.8兆円)かかると試算している。

チェルノブイリ:経済インパクトに関する試算は多くあるが、トータルコストは約1440億ポンド(約18.2兆円)

安全基準

福島:原発作業員の被曝線量は年間250mSvまで許容されている

チェルノブイリ:年間350mSv被曝した作業員が確認されている。

             ほとんどの国では原発作業員の年間最大被曝線量は20mSv。

             原発近くの居住者に許される年間被ばく線量は1mSv。

死亡者数

福島: 二人の従業員が原発施設内で死亡。何人かの科学者はがんで100万人が死亡するだろうと推測している。

チェルノブイリ:爆発の当日に何人死亡したかは国家安全規制が取られたので不明。

          しかし
グリーンピースは事故から25年経過した2011年の時点で放射線被ばくによるがんで20万人が

          死亡したと推定している。

避難地区

福島:政府は最初に
原発から20km圏を指定

チェルノブイリ:最初の避難地区は原発から30km圏。25年経過してもそのまま避難地域に指定されたまま

補償

福島:東電の株価は被害者一人当たりの補償額が1000ポンド(約126万円)が必要と報道されて事故以来大幅下落。

チェルノブイリ:補償額は多くない。アルメニア人への事故補償は1986年で一人当たり約6ポンド(756円)のオファーがされたとの報告が あ る。

援助

福島:人道問題コーディネーション国連事務所の報告では相互援助として9500万ドル(約73億円)。

チェルノブイリ:事故後12年たってウクライナのクチマ大統領は依然として世界の援助を待っていると不満を言った。

(以上)
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2011年09月03日

大人たちの力(連携)が必要、藤村靖之の放射能対策と原発問題

8月30日(火)の「放射線被曝から子どもを守る−那須の親たちの取り組み−」(我孫子市アビスタホール13:30〜15:00) の勉強会には近隣地区からも多くの参加をいただき、藤村靖之氏にお話を聞きました。質問時間終了後、わっと先生を取り囲んで更に質問が続いたのには面喰いましたが・・・・。

「いつもなら、我孫子の夏のお祭りに誘うのだけれど、ホットスポットだと心配で孫が呼べないい。」という声をこの夏は多く耳にしました。子育てしやすい街であると言えるには、子どもが元気に外で遊び、安心して手賀沼へでも市民の森でも出かけて行けることが、当たり前に出来なくてはいけません。子どもを守るには大人の力が必要です。どうぞ、いくらかでも連携していこうという方、お声かけください。ちょっとずつでも力を出し合えば大きな声になります。
         
 連絡先: ninakaizu@gmail.com (海津にいな)

なお、ボランティアでお手伝い下さった方が、ビデオ撮影してユーストリーム動画をアップしてくださいました。 画像part1〜3までとなっています。



 当日来られなかった方は、上記の動画または、URLより、クリックして見てください。

http://www.ustream.tv/recorded/17027719

講演会メモ(by M.Tanaka)を見る
posted by Nina at 19:40| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

外国語スピードラーニング

今、日本人が次世代対応していくには、英語の使い手になることは重要です。例えば、スポーツで世界に伍して活躍の石川遼、澤穂望、安藤美姫、伊達公子らは英語でコミュニケート出来る様子もたのもしい。振り返って、戦後、日本経済が一流になれたのも、敵性語とされていた英語をがむしゃらにマスターした商社マンが慣れない横メシを食いながら英語で商談をしてきたからでしょう。ようやく政治家でも英語でスピーチなどもするが、外交にもビシッと対処し、地震復興も早急に手をつけて日本の三流政治から這いあがって欲しい。駅頭で鍛えた演説力抜群の千葉初の首相になって、ここぞというところを示して欲しい。

そして、国内の事を考える、どぶ板を直すことも大事だけれど、もう日本の中だけ語っていては日本の明るい未来は築けません。まして、合併しない我孫子のまちであれば、輝く未来に向けてこの街を開いていくには、外国語(英語とは限りません)の一つや二つを嗜むくらいは住民の必須アイテムになると、私は考えます。

大正時代〜昭和初期、手賀沼が清く美しい我孫子町の時代には、外国人も訪れる別荘地、芸術家村の様相を呈していました。ロダンの彫刻が最初に日本に紹介されたのは白樺派を通してであり、そのロダンの彫刻が柳宗悦・兼子夫妻の家・三樹荘にあったのです!宗悦の所には、バーナード・リーチの他にも海外からお客がきたり、兼子夫人は芸大卒の三浦環に匹敵する国際的な評価の高い声楽家でしたから、その指導を受けようとかなり留学生が我孫子にもやってきたということです。

というわけで、英語でコミュニケートする、多言語にも通じる人が結構いたというのは我孫子の文化の特徴です。英語を使うには、兎も角、親しんでいれば話せるようになるのだというスピードラーニングのCMもあります。つまり、英語を使う場を生活の一部してみるといいかもしれません。時おり、下記のような勉強会をしています。お時間を作って覗いてみてください。外国人と喋りた人は目一杯どうぞ、聞くだけでもスピードラーニングになるかもというお試しの方も、お待ちしています。年齢も性別も、恥も外聞もありません。必要なのは、やってみようというかと気持ちと好奇心です。新学期も始まりました、どうぞ参加ください。


~外国人と英語だけでディスカッション~

9月25日(日) 10時〜12時  久寺家近隣センター 会議室


どなたでもお気軽にいらして下さい。

予約は不要です。

但し、当日参加費・お茶菓子付で500円です。

お問い合わせ:ninakaizu@gmail.com





posted by Nina at 02:11| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月01日

避難家族の声を動画で知る

 JANJANBLOGに名古屋の市民記者が、「フクシマから岐阜に避難してきた人の話」2011年 8月 28日 という報告記事を出して、注目されています。下記に転載しました。



。。。。。。。「フクシマから岐阜に避難してきた人」の記事(2011年 8月 28日 12:00)。。。。。。。。。
 
8月23日、三重県桑名市にある、ライヴもできるカフェFORUMで、フクシマから非難してきた人の話を聞く機会がありました。
このお店では「投げ銭義援金ライブ」を月一回程度開催しており、その企画の中で実際に避難してきた人の話がありました。

FORUMで開催されたUSTREM中継(避難してきた方の話以外にもライヴ映像もあります)
http://www.ustream.tv/recorded/16829136


話をしたのは、心理セラピストの佐藤瑛気さんです。
●佐藤瑛気さんの話
(分かりやすく再構成している部分や、USTREAM以外で聞いた話を加えている部分もあります)
震災直後は騒然としていました。
放射能については、誰も危ないといってはくれませんでした。
震災のあと数日後にの12日〜15日ころなどは、スーパーなども青空市場となって再開していました。

あとになって、一番放射能が高い時期だとわかったのですが、誰もそのような危険性を知らせてくれなかったので、
自分と娘はその青空市場にかなりの時間並んでしまいました。
福島市内には放射能の多いホットスポットが点在しています。
ホットスポットといっても、公園がロープで囲われていて入るなと紙が貼ってあるだけです。

自分の娘の通う学校が放射線量が高いホットスポットだと知ったのは、娘の学校が何度もTVに映されたかからです。
娘は面白がっていますが、親は気がきではありません。
自宅の放射線値をガイガーカウンターを借りて計ってみたところ、自宅前で2.9、玄関で0.9 屋内で0.5。
3.9でホットスポットといわれるので、かなり高い数字でした。
テレビのアナウンサーは、この値はレントゲンのエックス線と同じ値だといいますが、レントゲンは一日中あびません。
この値の放射線をずっと浴びつづけたら大変なことになると、7月になって気がつきました。
それでも多くの人が避難していません。
その理由は情報がないからです。

放射線量が高いのいので子供は集団非難したほうがよいという記事は、こちらの新聞には乗っていますが、フクシマの新聞には掲載されていません。
テレビなどで流されているのは「ガンバロウ福島」というかんじのものばかりです。
フクシマの人たちの間には大丈夫ムードがあります。
こちらに避難してから、テレビで放射能特集の番組をやっていたので、まだフクシマにいる知り合いに電話したところ同じ時間にお笑い番組をやっていた、ということがありました。
情報管制がしかれているのではないかと疑うほど情報がありません。

フクシマの知事も当初はフクシマからの避難の受け入れは必要ないといっていたので、周辺の県でも避難の受け入れがはじまりませんでした。
隣の山形での避難受け入れがやっとで7月に始まりましたが、申し込みが殺到してすぐに一杯になりました。
私の住んでいた地域では、学校の校庭は除洗したけれども、通学路は除洗していません。放射線量も高いままです。
そのような状態なのにテレビでは除洗モデル地区として通学路の映像が流されています。
そのような地区で、娘は暑いのにマスクをして通学して、避難するまでの4ヶ月の間、外で遊んでいました。
娘の学校に授業参観にいったのですが、学校内ではマスクはしていませんでしたが、教室の校庭側の窓がすべて閉められていました。
廊下の窓はあいていましたが、汗ダラダラの暑さでした。

扇風機が4機あって動いていましたが、暑い空気を循環させるだけなのでより暑い感じがしました。
テレビ番組で、その学校のプールサイドで放射能測定機の針が振り切れるということがありました。
学校側はプールの水を抜いて除洗しましたが、保護者の猛反対にあって、プールの授業は
市内の室内プールで行うことになりました。
その室内プールは、いろいろな学校がつかっているので、プールは週に1日だけです。
プールも水を足でバチャバチャしただけで終わってつまらないと娘が言っていました。
放射能は目に見えません。
避難する前に庭いじりをしていたときに、自分と妻の手の指がただれるということがありました。
これが放射能のぜいかどうかは分かりませんが、とても気になります。

チェルノブイリのかけはし」というチェルノブイリの子どもを北海道に避難する支援をしているNPO法人の代表の方の講演会を聞きにいく機会がありました。
避難してきたチェルノブイリから避難してきた子供の写真は、目の下にクマがあり不健康そうでしたが、おなじ子供の避難後一ヶ月の写真は、イキイキしていて健康そうな顔になっており、まったく人相が変わっていました。
放射能は目に見えないけれど、実際にあるんだと痛感しました。
これを機会に避難することにしました。
車に子供を乗せて、日本海側を通って岐阜に避難しました。
子供が行きたくないと泣きました。
東北からかなり離れた途中の休憩所で、娘が「ここは放射能ないの、この石触っていい?」と聞きました。
なんてことはない、どこにでもある石ですが、いまは娘のリュックに大事そうに入っています。
放射能があるから触るな、と言いつづけることは、親にも負担です。
外でごく普通に遊べるといことは、本当にすばらしいことです。

フクシマの公園では誰も遊んでいません。
子供の健康のことを考えると、もどりたくありません。
中日新聞にはフクシマの子供の4割に甲状腺以上が見つかったという記事がありました。
一緒に避難したお母さんも涙目になって話をしていました。
自分たちはこちらに移転することを考えていますが、子供が放射線のことでイジメられないかが心配です。

被爆したことのある人が、婚約を破棄された例もあると聞いています。
こちらにやってきてホテルに宿泊するときも、宿泊拒否されるんじゃないか、ということが心配でした。
手続きをしている間もずと心配で、実際に部屋に案内されて、部屋に入ってしまうまで、宿泊拒否されるんじゃないかと心配をしていました。

●質問コーナー
Q:避難に際して仕事以外での障害はなんでしょうか?
A:コミュニティの問題があります。
移住した先では子供にも友達がいないので新しい友達ができるか不安です。
母親たちにもママ友がいません。
知っている人も周囲にいないので不安です。
地域の地理などもわかりません。
同じ地域の人たちが集団で移住すれば安心です。
もともとすんでいた地域での人間関係が壊れることが心配です。
フクシマから離れることを「逃げる」といわれるのではないかと心配です。
自分たちも近所には移住することを話していません。
とても言える雰囲気ではありません。
フクシマでは放射能のことは話題にならないのです。

Q:コミュニティごとに移住する話はありませんか
A:高山にそのようなことをしている古民家があります。
有志のかたがやっているものです。
本当はそのようなことは行政がしなければいけません。
各市で100づつ受け入れなどをすればなんとかなるような気もしますが、行政が動くには協定を結んで利面倒くさい手続きが多いです。
先日話をした年配の方は、むかしの戦争のときなどは集団疎開をしていたのだから、いまもそうやって避難させればいいと言っていました。

Q:何十年かたって放射能が薄まったらフクシマに戻る気はありますか?
A:たとえば30年たったあとにフクシマに戻るかと言われても難しいと思います。
娘もこちらで30年たてばこちらでの生活があるでしょうからできないと思います。
政府は当初100ミリシーベルトまで大丈夫と行っていましたが、あとで数値を見直しました。
パニックを避けるためにそのような値を発表したと言っていますが、知らずに子供を外であそばせた人もいます。
こちらにやってきても、フクシマ産の野菜などは怖くて買えません。
でも子供は知らないので買い物カゴにいれてしまうのを、母親カゴから戻したりしています。
こちらでは毎日放射能のニュースが流れています。
こっちの人は、現場にも情報が伝わっているとおもっていますが、実際には伝わっていません。
マスコミや議員にも原発関連でお金が流れていると聞きます。

●佐藤瑛気さんのブログとHP
http://ameblo.jp/cocolo-atelier
http://atelier-cocolo.jimdo.com/

posted by Nina at 19:40| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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