2011年08月21日

夏休みの土産話

今年、夏休みに車で信州へ行った。途中、何度か立ち寄ったサービスエリアが、今までと何か違うなあと感じた。NEXCO(日本道路公団の民営化後の2006年に公募でつけられた略称をもじった愛称:ネクスコ)の民営化初年度の決算は3社とも100億円前後の黒字を達成したというが、いよいよサービスエリアの改善、研究もスタートしだした。民間数社のアイデアが入って来ると進化、淘汰していくものだなと感じた。そこで、去年の夏に寄ったサービスエリア(韓国)の写真を何点か紹介したいと思う。

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今まで、高速のサービスエリアでは、トイレ休憩でおりて、そこで食事するにしても決まったメニューを選ぶしかないのが定番だった。それが、去年、韓国のサービスエリアを見た時に、実のところそのサービスの良さに驚き、持っていたカメラで何枚か撮った。車を降りた瞬間から、そこはテーマパークと合体したような感じになっていた。メリーゴーランドこそなかったけれど、親子連れなら、そのままそこの遊園地エリアで遊んで行きたくなりそうな雰囲気。トイレ・エリアに足を踏み入れるとそこはエステの応接室のような広いソファーがあり、ガラス越しに中庭がある。授乳室には一つ一つにパステルカラーのカーテンがしつらえてあり、中もゆったり感がある。清掃に巡回してくるスタッフは、ソファーなどをマメにスプレイで抗菌消毒しているし、微風設定の空気清浄機もあった。用を足すだけではなくて、女性の気持ちをリフレッシュしようとの気の使いようは、日本のサービスエリアでは見られないものだった。こういう旅先での女性に対するホスピタリティは、今や韓国の方が上をいっているのではないかと思った。男性のトイレはどうなっていたのか、男性たちから特段の声がなかったので、ベビー椅子があったのか、どうなのかとかまで聞くこともなかったが・・・。

P7220899.JPGさて、お腹もすいたとレストラン・エリアに行ってみると、フードコートのように店の種類が多い。日本なら、そそくさとテーブルと椅子について、何か食べられるだけで有り難いと観念して入る所だった。一つしかない食堂なので、その店のメニューから選ぶしかない。味からして、多少高いなと思っても仕方なく支払うのだが、韓国の場合は、選べて、安くて、しかも野菜たっぷりで旨い!ではないか。昨年、そこで何を食べたかというと、“讃岐うどん”の店を選んで、うどんといなりずしにした。すると、刻みネギだけではなくて、いくつも副菜がついきて、600円くらいだった。ところで、讃岐うどんは、香川産の小麦をつかわないと讃岐うどんの商標を使わせないというのだけれど、麺のシコシコ感は本場モノだった。あとで、事情通に聞いてみると、このチェーン店オーナーが現地でちゃんと修業して“讃岐うどん”を名乗っているのだという。当然、私としても研修ツアーのモチベーションはあがり、滑り出しから印象度がアップしてしまった。旨いし、安いし、キレイで早い!

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DSC01163.JPGさて、さて、今夏、信州へ至るサービスエリアで見つけたお土産は、「東京スカイツリーまんじゅう」(栗饅頭)でした。 画像でのおすそわけでゴメンナサイ。

posted by Nina at 16:46| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男性芸術家たちの本性

おあつうございます。

芸術家と称される人々は、その作品の輝きによって後世までも称賛される。従って、ファンが絶えないが、実はけして女性に誠実であったかと言えば、気が多すぎる位だというのが改めて分かり、わたしとしては残念至極だ。

ロダンもですが、ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。常に取り巻きが欲しい。92年間の人生で、正式な妻以外にも何人もの愛人を作った。絵を描いているアトリエで女性が二人で取っ組み合いをしたというのもピカソの逸話だ。分かっているだけでも、ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。

パリに出て最初に付き合ったのは彼女がフェルナンド・オリヴィエ、18歳、ピカソが23歳のとき、「青の時代」「桃色の時代」をへて富と名声を得た31歳のピカソは、つぎに27歳エヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなったがその間にもギャビー・レスピナッセと知り合った。

ピカソにおいては恋愛は活動の原動力、不可欠であったが、それこそとっかえひっかえ、悪びれることはない。最初の妻、オルガ26歳と知り合ったのは、ピカソが36歳のときだった。ピカソはバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ、1918年に齢37歳で初婚だ。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなったが結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ただ、恋愛となると話は別・・・

ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止したが、複数の女性との親交も続いた。1927年、ピカソ46歳で、17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。ピカソの死後、マリー・テレーズは自殺した。生活費が途絶えたとか??

1936年から1945年までは、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録したカメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。ドラが29歳、ピカソが55歳での出会いだった、彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあった・・・。オルガとの離婚に向け、話し合いの最中にも関わらず、複数愛人を作った。ゲルニカを製作中のピカソのアトリエでドラともう一人の愛人マリ―が鉢合わせになり、「どちらを取るの?」と問われたピカソは、「戦って決めればいい」と言い放った。
この愛人2人が、その言葉にまんまと乗せられ取っ組み合いを始めたというから酷い話だ。次の恋人が出来ても終わったはずの妻や愛人と、旅に出たりもしているのは、どっちもどっちなのだろうか。自分で稼いだから、追い詰められなかったかもしれない。

1943年、ピカソ61歳で21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始めた。ピカソはフランソワーズの知性に魅了されていったんだそうです・・・そしてクロードとパロマが生まれた。理想的な生活は幸せのはずであったが、ピカソの欲深さは尽きることを知らない。フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、結局、10年余りで終焉を迎えるた。このことはピカソに大きな打撃を与えた。「どんな女だって、わしのような男から、去ってゆきはしない。ここを出ることは、砂漠に行くようなものだ」。ジローは「砂漠で生きる運命にあるなら、そこで生き抜いてみせます」と言ったと言う。 1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、1970年に米医学者と再婚して米国に移住しています。それでもピカソは女性という生き物への執着は衰えるところがない、またしても別の相手に興味を示す。

嫉妬からか、後にこのフランソワーズがピカソとの生活について暴露本を出し、ピカソと子供との間にも断絶が生じるのであった。別れた後も、さまざまな愛憎劇を繰り広げたジロー。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。

ジェネヴィーヴィ・ラポルテが20代半ばの時、ピカソが70代で愛人関係になったが、1961年にはいよいよ最後の妻となる26歳ジャクリーヌ・ロック(陶器工房で働いていたのを見染めたモデルとして)出会った。時に旅行をし、時に闘牛を見学に行くなど、徐々に時間を共有し合う関係になった。 当時フランソワーズが、クロードとパロマの認知を得たいと考えたので、ピカソはフランソワーズには「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。ところがフランソワーズが相手との協議離婚が成立すると、ピカソは既にジャクリーヌとし結婚し、世間はピカソの当てつけだと見ていた。1955年の前妻オルガの死に伴い、8年の交際の後、79歳のピカソと37歳で二番目の正妻になった。ジャクリーヌは年老いた男には、それがまるで母親であるかのように心の支えとなり、同時に良き理解者となった。1973年4月8日、ピカソは91歳にしてこの世を去る。ジャクリーンはピカソの死後に自殺した。ピカソに愛された女性が、自殺または気が触れるなど次々と不幸な最期を迎える中、ジローはただ一人生き残り、暴露本も出し、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)のは救いです。さすがに若い時は女優のような美しさの人でした。

ピカソはアトリエには妻さえも入れなかったが、鳩は特別に入れていた。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。娘のパロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、現在はティファニー社のデザイナーとして活躍している。

至高の芸術を目指して成功する人は一般人からすると傲慢、そしてしぶとく長生き。若くて邪心のない美しい女性たちは、彼らにインスピレーションを与える、が彼女たちが成長してより多くを知り、彼を正すと、とうとまれるようになる。彼らが心から愛を欲するのは芸術の女神からだけか。より美しい(人間は年をとり、分別もつくから)無邪気な妖精をハンティングし、捉えて標本にするのに何の憚りもいらないと思っている。一方で、青年がこのように女性の下僕になる場合はあるのでしょうかね。谷崎潤一郎の「春琴抄」は切ないほどにお嬢様に従い、目をつぶすとか、でも実話を下地にしたのじゃないのでしょう。

男女の文化格差の歴史もこんな具合だけど、日本は源氏物語を書いた世界で最初の女流文学者・紫式部がいるというのを慰めにしましょうか(でも、源氏の君に憧れる女たちの恋愛心理からすると、しょうがない宿命なのでしょうかね)。
posted by Nina at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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