竹島は、島根県の隠岐島北西約160キロの日本海にあります。この島が「日本領の竹島」なのか、「韓国領の独島」なのか。これが「竹島問題」です。
日本の住所で言えば、島根県隠岐郡隠岐の島町です。東島(女島ともいう)と西島(男島とも)の2つの島と約30の岩礁から成り立っています。全部合わせても面積は0.23平方キロ。東京の日比谷公園ほどの広さしかありません。水源もない岩場ばかりで、人が住めるような環境ではありません。しかし韓国は、ここに警備隊を常駐させ、「ここは韓国領の独島(トクト)だ」と主張しています。この問題をめぐり、とりわけ韓国が神経を尖らせるのは、かつて日本が韓国を支配していたという歴史問題が存在しているからです。島根県が竹島を自県に編入した1905年は、韓国にとって屈辱の年だったのです。ここに住民登録している韓国の国民もいるのですが、日本では住民登録はありません。
■古文書の解釈めぐり対立
日本も韓国も、この島について書かれた歴史文書の文章を引用して、それぞれの領有権の正当性を主張しています。しかし、同じ古文書を引用しても、文章の解釈が異なり、論議はかみ合っていません。しかも、かつては竹島の北西にある鬱陵島(うつりょうとう・韓国領)を「竹島」と呼び、竹島を「松島」と呼んでいた時代があるため、話はややこしくなってしまいます。
そもそも竹島が日本の領土になったきっかけはアシカでした。竹島にはかつてアシカが多数生息していて、1903年、隠岐島の人が皮革をとるためのアシカ猟を始め、翌年になって、この島を日本の領土に編入して自分に貸与するように明治政府に申し入れたのです。これをきっかけにして、明治政府は、ここが無人島でどこの国のものでもないことを確認したとして、1905年1月、日本の島根県に所属させることを閣議決定しました。
これを受けて当時の島根県知事は、竹島を島根県に編入する告示を出しました。これが、2月22日だったのです。その9か月後の1905年11月、日本は韓国(当時は大韓帝国)の外交権を握りました。日本が大韓帝国を属国としたのです。
そして1910年には、日本は大韓帝国を日本の一部にしてしまいます。これが「韓国併合」です。この後、日本が第二次世界大戦で敗北するまで、朝鮮半島は日本の植民地でした。韓国の人にしてみれば、「日本は朝鮮半島を植民地にする戦略の一環として、韓国の領土である独島を奪った」ということになります。
■戦後、竹島も含めて放棄したのか
第二次世界大戦で敗れた日本は、朝鮮半島を放棄します。このとき、竹島まで手放したかどうかが問題になりました。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が、1946年1月、日本政府の行政権が及ばない島々を列挙する指令を出したとき、その中に竹島が含まれていたからです。ただし、このとき同時に、これらの島々が最終的にどこの国のものなるかを定めたものではないということも書いてありました。最終的な決定は別に定めることになっていたのです。ところがその後、連合国軍として、竹島について方針を出さなかったため、韓国は、「これで竹島が日本のものではない(つまり韓国のものである)ことが決定している」と解釈するのです。
1951年9月、日本は連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、日本の独立が回復しました。この条約の中で、日本の領土について、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄することが書かれています。放棄する島に竹島が含まれていないのです。これを根拠に、日本は「竹島は日本が放棄していないのだから日本領だ」と主張しています。
これに対して韓国は、「名前が出ている島は単に例として挙げられただけであり、竹島の名前が例示してなくても、日本が放棄した朝鮮の領土に含まれる」と主張しています。さらに、「韓国はサンフランシスコ講和条約の締結国ではないので、講和条約に関係なく自国の判断で領土を決定できる」とも主張します。
■韓国は李ラインで実効支配へ
1952年1月、当時の韓国の李承晩(イ・スンマン。当時の日本は「り・しょうばん」と呼んだ)大統領は、「隣接海洋主権」を宣言します。韓国周辺の海域は韓国の領海であるとして、韓国周辺の海域に「平和線」を引き、「この線の中は韓国の領海だ」と主張したのです。日本はこの線を「李(り)ラインと呼びましたが、この線の内側に竹島が含まれていました。つまり李大統領は、「独島は韓国の領土だ」と一方的に宣言したのです。これ以後、李ラインの内側に入った日本の漁船は、次々に拿捕(だほ・捕まること)されました。中には韓国側から銃撃を受けて死亡する漁船員も出ました。
また、1954年には韓国による竹島の実効支配が始まったのです。韓国は竹島に警備隊を常駐させ、灯台も建設しました。海上保安庁の巡視船が近づくと、銃撃されることも起きるようになったのです。それ以来、日本政府としては、外交交渉で解決をはかるという方針をとるにとどまっていました。
■日本は、国際司法裁判所への二度の提訴
日本はその後、国際司法裁判所に提訴することを求めましたが、韓国はこれを拒否します。国際司法裁判所は、国家間の紛争を扱う国連の組織です。しかし、独自に調停に入ることはせず、紛争当事国の双方が了承して初めて審理に入る仕組みになっています。日本が提訴を提案しても、韓国は、「独島は韓国の領土であり、領土紛争など存在しない」と主張して、提訴を認めなかったのです。こうして、韓国による実効支配の実績が積み重なっていくことになります。
■日韓交渉では棚上げになった
第二次世界大戦後に韓国が建国された後も、日本と韓国の間には国交がありませんでした。国交を結ぶための交渉は1951年から始まりました。この日韓交渉では、日本の植民地支配について日本が韓国に賠償金を支払うかどうかが大問題になり、竹島問題は棚上げされてしまいました。竹島までも議論することになると、日韓交渉が行き詰まることは目に見えていたため、それを避けたのです。交渉の過程で、日本の外務省の首脳が、「竹島が日韓交渉進展のために邪魔になるのなら、いっそのこと爆破してしまえばいい」と発言したこともありました。1965年、日本と韓国は日韓条約を結びました。日本は韓国に賠償金を支払わない代わりに、「独立祝い金」を贈ると共に、韓国の経済発展のための経済協力に資金を提供することで話がまとまったのです。竹島問題は、棚上げのままでした。
■竹島周辺で漁船のトラブル続発
こうして、とりあえず竹島問題は棚上げしたまま、日韓は関係を深めていきますが、竹島周辺の海域では、その後も緊張状態が続きました。韓国は竹島を独島という領土だと主張していますから、そこで島根県の漁船が竹島周辺の海域で漁業をしようとすると、韓国の漁船と漁場を奪い合いになったり、韓国の警備艇が来て追い出されたりするということになります。
★排他的経済水域とは、領海ではなく、他国の船が自由に往来できるものの、漁業や海底の資源採取などの経済活動をすることは、その国の許可がなければできない水域のことです。竹島は日本と韓国の両方が領土だと主張していますから、竹島周辺の海域も、双方にとって領海であり排他的経済水域ということになります。
このため日本と韓国が話し合った結果、日韓双方の漁船が、相手方の排他的経済水域でも漁業ができるという日韓漁業協定を結びました。竹島をめぐっての争いはひとまず棚上げした上での“大人の”解決方法でした。しかし、それでも島根県の漁船は、自由な漁業ができないことが多く、困った漁業関係者の声を受け止める形で、島根県の条例ができたのです。せめて日本国民に竹島のことを知ってもらい、北方領土と同じように返還運動を高めようという狙いで、「竹島の日」を定めたのです。
■韓国では「独島はわが国の領土」が常識に
このように、日本では島根県の人たちが何とか日本国民に知ってもらおうとしていましたが、韓国では、学校教育で必ず「独島はわが国の神聖な領土」と教えます。韓国の国民は誰でも独島を知っていて、「自分たちの国の島だ」と思っています。だからこそ、日本が「竹島は日本のものだ」と主張すると、日朝の歴史が蘇ってしてしまうのです。
しかも韓国では、1982年に、「独島はわが土地」という曲が大ヒットしました。「ハワイはアメリカの土地、対馬は日本の土地、独島はわれらが土地」という歌詞の歌です。これでますます誰もが知っている島になっています。ここに、日韓の温度差があるのです。竹島は、韓国が実効支配しています。
■国際法では 50年で実効支配していた国に帰属
国際法では、実効支配が50年続くと、その領土は実効支配していた国のものと認められることになっています。韓国が竹島を実効支配するようになったのは1954年。抗議のアクションをとらないと、国際法上も竹島は韓国になってしまいます。日本としては、韓国の実効支配を認めないというアピールをしておかなければなりません。そこで、毎年韓国に対して、「竹島は日本の領土であり、そこを韓国が不法に占領していることは認められない」という口上書を提出しています。
また、海上保安庁の巡視船が時折竹島に近づいて、韓国側が「自国の領海」と主張している海域に入るという行動をとっています。「ここは日本の領土であり領海だ」というアピールしているのです。そのたびに、竹島周辺の海域では日本の巡視船と韓国の警備隊との間で緊張が走ります。
未来の日韓関係に、どういう解決策があるのか、戦争による解決でない21世紀にするべきです。
交流と友好の努力によって、互いにプラスになる選択を探していきたいのです。今世紀には、両国の女性たちも加わってネットを使って、解決の糸口をさぐれないものでしょうか?20世紀には、家長制度化の両国の女性たちは「銃後の護り」、「従軍慰安婦」としてでしか歴史にかかわれませんでした。両国の女性は、世界有数に男子よりも教育機会を得ているとも言われ、賢明な人類の選択を低減できる立場にあります。国家によって、進められた戦争を女性の力と協力で平和を目指して解決できないのでしょうか。
参考:イーウーマンHP
http://www.ewoman.co.jp/2005_news/gimon/15/04.html