2011年08月31日

千葉一、世界一のまちづくりに

野田佳彦・民主党代表は30日午後、国会で首相指名を受け、第95代、62人目の首相に選出された。千葉から、初の首相が誕生したことになる。千葉県に、なでしこJAPANNの丸山桂理奈選手、そして柏市にレイソル、千葉市にロッテマリン、松戸市に宇宙飛行士・山崎直子さん(第二子出産のため31日引退)、印西市に県下初の女性市長、船橋市には総理大臣、我孫子にも全国に轟く素敵を発掘したい。この町の子どもの中から将来のノーベル賞受賞者とか・・・・

さて、同日午後、アビスタにて「大人の力で放射能から子どもをまもる」勉強会を開催した。藤村靖之先生の講演が終了すると、質問の輪が先生を取り囲み、それぞれの心配の程がわかった。今回、勉強会実行委員の方々は欠席(放射能疎開など)も相次いだので、ビデオをユーストリームに公開出来るように考えている。

また、世界を股にかけてユニークなお仕事を展開される藤村先生の那須のスタジオ見学にもお誘いを受けたので、那須町で行われている大人たちの取り組み(300人超もの町民自主参加で子どもをどう放射線被曝からまもるか、実践する)を見に行ってみたいとおもう。参加希望者は、

ninakaizu@gmail.com へご連絡ください。 


がんばろう我孫子!

子どもたちに安心と夢を与えられる




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2011年08月29日

4割を再生可能エネルギーに、やれば出来る

「原子力ルネッサンス」といわれた世界的な原子力回帰の流れは、福島原子力発電所の事故によりその終焉を迎えつつある。

現在、日本の電力供給体制は発電から送電、小売りに至るまで電力会社による一貫体制なので、民間、個人が再生可能エネルギーを創出しても送電線網の利用が出来ないとコストが増すので、このことも問題になっている。発送電分離の議論はその過程におけるテーマの一つと言えるだろう。

海外に目を写して見ると、電力の4割を再生可能エネルギーで賄っているスペインのような国は電力インフラを整備し、既に国家のエネルギービジョンがしっかりある。イタリアも国民投票で原発の廃止を決定した。原発がなくて、電力が供給できないなどということより、放射能の被曝の方がより不安だと、はっきり判断したのだ。

事故後の3月14日にはオーストラリアのギラード首相が原発不要との考えを示し、自身が実際に東北の人々を激励にきている。3月15日には世界最大級の原子炉建設を進めているフィンランドのハロネン大統領ですら、原子力は一時的なエネルギー源であり再生可能エネルギーの活用を目標にすべきだとの認識を持つに至っている。ドイツでも福島原発事故を受けて22年までに同国の原発を全面的に廃止することで合意したほか、スイス政府も34年までの原発廃止を決定している。日本は、原発の放射能拡散でパニックになることはないが、電力が供給されないことの方が怖いのだ。確かに、電気仕掛けの立つと流れるトイレ、オール電化のキッチン、マイコン制御の風呂、洗濯機となってしまって、今や欧米よりも電気の供給がないと日常生活が成り立たない。欧米では、今でもろうそくをロマンチック使って食事をしたりするけれど、日本じゃお盆でもないとろうそくは手に入りにくい。日々、めったなことでは停電がないのが前提だ。

日本は原子力発電所を2020年までに9基、30年までに少なくとも14基新増設、2030年において総電力に占める割合を原子力の50%以上の利用を目指すとの目標が掲げられていた。原発事故を起こし、17万棟の家々が住めなくなったとも言われるが、上記の国々よりもエネルギー政策見直しの決断にも時間がかかっていた。しかも、再稼働への道筋を模索しながら、ようやく5月10日の菅総理は会見で、「エネルギー基本計画」をいったん白紙に戻す」と表明した。

上記の国々は、偶然だろうか、閣僚の半数が女性であったり、大統領、首相が女性だ。国民が何よりも生命に連なる事を第一義におく選択をしたからだろうか。今の日本の女性たちは、家にあって偉大だが、国政に関してもっと昔の母親たちの連携のように“しゃもじ”で抗議するくらいの粘りがあっていいのではないか。世の中の半数が女性なのだから、政治にもっと声をあげれば、必ず変わっていくことを上記の国々は示している。

東京財団のHPに再生可能エネルギーの可能性についてのレポート(8/23)があった。
http://www.tkfd.or.jp/research/project/news.php?id=788

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2011年08月28日

8月の終わりに

河童音頭が出来て50周年だという。今年のあびこカッパ祭りは前日の雨のため、初めての順延だったが30分の花火でのフィナーレも大盛況だった。委員長の発案で、街の活性化に一役とのご当地グルメコンテストにも取り組んで、5月からレシピを募集したり、実際に試食しながら予選通過の料理を3点決め、当日はその3点セット(500円)で500食用意してインフォメーションセンターで最終選考の公開審査の決選投票をした。

私も祭りの実行委員の一人だったので、朝6時集合で準備にスタンバイ。なんのかんのと受付の作業に追われながら、踊りの連を見ながら手賀沼公園におりると、表彰状、賞品に受賞者の名前を書くなどを急遽頼まれてお手伝いした。さて、商品もなかなかのもので、ご当地グルメのグランプリは賞金10万円、我孫子米60キロ券も出されたのでわきに湧いた。1位のトマトスープご飯を考えた主婦が子ども達と跳ね上がって大喜びし、グランプリに輝いて家族で最高の夏の思い出を作ったようだ。仮装コンテストにも10万円の賞金が出され、つくし野睦会有志が3年連続の最優秀賞と決まった。今年は受付のお手伝い役だったので、初めて手賀沼公園での盆踊りも見ることが出来、最高の花火も鑑賞できた。

今回で4回目の祭りだが、本来は手賀沼花火の火付け役であった我孫子花火大会とカッパ祭りが地元の人々の間で30年以上も続けられ、我孫子花火大会が柏や沼南町と連合で行われる手賀沼花火大会に成長していく間に、カッパ祭りの行事自体が花火大会に統合されて終焉に向かったのだというような話を第一回目の実行委員会で聞いた。地元の活性化、子どもたちに我孫子の夏の風物詩をよみがえらせようなど考えた地元っ子が中心になっていると知って感心した。

ひょんなことで誘われて関わる事になったが、その時の一回目のスタッフTシャツを持っている。イラストレーターが無償奉仕で提供してくれたものらしく、グリーンの地になかなか洒落た画が背中にある、今やレアものの値打ちだ。いいねと言われると、いきさつを話たりして話題提供も出来る。その後、毎年、新しくデザインされて希望者は買えるが、全部そろえて持っているスタッフもいるらしい。私は、主婦感覚で・・・・チョとタンスに増えすぎ。

さて、明日は民主党首が誰になるのか、決選投票で決DSC01115.JPGまる。
これまでは、菅首相の居座り在位がどうなるかと言われてかまびすしかったが、選ぶのは民主党内。そして、候補にあがった誰がなっても、結局は民主最大派閥がどう動くかにかかっているとか、言われて、元の黙阿弥ではないか・・・。

そのお陰で、明朝九時のEモーニングに夫が久々にテレビでのコメントに呼ばれ、28日はオフィスに行って仕事だったから、祭りに関わっていても食事作りを気にすることもなかった。明夕方には党首がきまるのだ(右画像は、8年ぶりに党員・サポーターが投票に参加する民主党代表選の時のもの。菅直人代表の任期満了に伴う小沢VS菅による投票選をライブでテレビ公開:2010年9月14日実施を市役所のロビーのモニターで撮影)。

国民がしっかり、政治を見据えて判断、行動していかなくてはならない時代だから、政治家、議員にお願いするというのではなくて、政治による生活の影響をもっと一緒になって強く訴えるべきと思う。

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2011年08月27日

その時点での、米原子力の専門家の分析

原発コンサルタンタントのアーノルド・ガンダーセン氏が4月26日のYoutubeで,福島原発3号機の3月14日の爆発は「水素爆発」ではなく「核爆発」であったことを、3号機と1号機と広島原爆の爆発写真3枚を比べて結論づけました。


この結論はあくまでも爆発の瞬間の噴煙の高さと強さと広がりを写真で判断しただけですが、 でに「福島原発3号機の爆発についての解説」をしていました。当時、日本政府が情報を正確に出さない段階で、ガンダーセン氏はその中で「仮説」と断っていますが「福島3号機の爆発はプール内の使用済み核燃料が「水素爆発」の衝撃で「即発臨界」が引き起こされ爆発した「核爆発」」と結論づけています。


アーノルド・ガンダーセン氏は「周辺住民の避難指示は半径20キロでは不十分。最低でも40キロにすべき」と警告した米国の技術者です。

以下の映像をご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/5df08404f10e2a65ec49986cc14d6f21

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お福分け

根戸でこんなの撮れましたと、あさ取りメール。
見てのお味は分かりませんが、ご家族の幸せのおすそわけ (*^^)v 
いいですね。
----- Original Message -----
Sent: Saturday, August 27, 2011 10:54 AM
Subject: みのり

> 我が家の庭の梨です。脚立に上がった息子が木から切り落とし、籠を持った私が下で
> キャッチ!秋ですね〜。
>
>
なし.jpg
posted by Nina at 11:20| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月24日

放射性廃棄物はどこへ

放射性廃棄物はどこへ「終わらない悪夢」前編後編1.7GB.mp4 


 bloomberg_europe
http://www.tweetdeck.com/i18n/
http://janetter.net/jp/
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秋の味覚

立秋も過ぎたというのだけれど、暑さのぶり返し、でも先週と比べると山場をこしたのかなという感じだ。
バー ビール 
スーパーで、福島の野菜、牛肉が並んでいたので、かごに入れた。これも何かしらの東北支援になるだろうなどと、考えた。リンゴ、バナナ、アボガド、トウモロコシも買った。そして、カートを押しながら、牛肉は残ったワインでビーフシチューの煮込みもいいかなと、思いつき、それならクレソンも欲しいなと野菜の売り場に戻っていくと・・・。すると途中で秋刀魚に出くわした、家に大根があったから、今晩のメニューは秋刀魚の塩焼きにしよう、と俄然、秋の先取りに、食欲の秋へまっしぐら、わくわくしてきた。
      ハートたち(複数ハート) 揺れるハート黒ハート

スポーツクラブを早めに切り上げて、しめじとピーマン、モヤシに挽きたての粒コショウを振りながら炒め、蒸したてのトウモロコシもメニューに加えた。ビールで??回目の誕生日を祝った。そしてテレビの中では月末の党首選の候補者のコメントが述べられるが、どれもすっきりしない感なのはまたも残念だ。
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2011年08月22日

Email from my friend




2011/8/21 Beatriz Ferreira <9@msn.com>
And, especially YELLOW Roses!!   Yellow is my father's favorite!! Red roseRed roseRed roseRed roseRed roseRed roseRed rose  (couldn't find yellow ones


I truely believe in this. How many flowers end up at the funeral home and how many flowers did the dead person enjoy while they were alive? Here's an e-flower from me! Enjoy your day!
Flower Delivery.....

roses.jpg
I would rather have one rose and
a kind word from a friend
while I'm here, than a whole
truck load when I'm gone.
These Are For You !!!

Just forward these to all your friends, including me.
And don't tell me that you're too busy to send FREE flowers!
Don't you know the phrase ... 'Stop and Smell the Flowers' ???

Happiness keeps you Sweet,
Trials keep you Strong,
Sorrows keep you Human,
Failures keep you Humble,
Success keeps you Glowing,
But .... Only Friends ....
Keep You Going !!!

rose.jpg
See how many flowers you get today !!!
Thank you my friend for being a part of my life, whether you are a reason, a season, or a lifetime.
Lots of love
意訳を読む
posted by Nina at 09:19| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月21日

夏休みの土産話

今年、夏休みに車で信州へ行った。途中、何度か立ち寄ったサービスエリアが、今までと何か違うなあと感じた。NEXCO(日本道路公団の民営化後の2006年に公募でつけられた略称をもじった愛称:ネクスコ)の民営化初年度の決算は3社とも100億円前後の黒字を達成したというが、いよいよサービスエリアの改善、研究もスタートしだした。民間数社のアイデアが入って来ると進化、淘汰していくものだなと感じた。そこで、去年の夏に寄ったサービスエリア(韓国)の写真を何点か紹介したいと思う。

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今まで、高速のサービスエリアでは、トイレ休憩でおりて、そこで食事するにしても決まったメニューを選ぶしかないのが定番だった。それが、去年、韓国のサービスエリアを見た時に、実のところそのサービスの良さに驚き、持っていたカメラで何枚か撮った。車を降りた瞬間から、そこはテーマパークと合体したような感じになっていた。メリーゴーランドこそなかったけれど、親子連れなら、そのままそこの遊園地エリアで遊んで行きたくなりそうな雰囲気。トイレ・エリアに足を踏み入れるとそこはエステの応接室のような広いソファーがあり、ガラス越しに中庭がある。授乳室には一つ一つにパステルカラーのカーテンがしつらえてあり、中もゆったり感がある。清掃に巡回してくるスタッフは、ソファーなどをマメにスプレイで抗菌消毒しているし、微風設定の空気清浄機もあった。用を足すだけではなくて、女性の気持ちをリフレッシュしようとの気の使いようは、日本のサービスエリアでは見られないものだった。こういう旅先での女性に対するホスピタリティは、今や韓国の方が上をいっているのではないかと思った。男性のトイレはどうなっていたのか、男性たちから特段の声がなかったので、ベビー椅子があったのか、どうなのかとかまで聞くこともなかったが・・・。

P7220899.JPGさて、お腹もすいたとレストラン・エリアに行ってみると、フードコートのように店の種類が多い。日本なら、そそくさとテーブルと椅子について、何か食べられるだけで有り難いと観念して入る所だった。一つしかない食堂なので、その店のメニューから選ぶしかない。味からして、多少高いなと思っても仕方なく支払うのだが、韓国の場合は、選べて、安くて、しかも野菜たっぷりで旨い!ではないか。昨年、そこで何を食べたかというと、“讃岐うどん”の店を選んで、うどんといなりずしにした。すると、刻みネギだけではなくて、いくつも副菜がついきて、600円くらいだった。ところで、讃岐うどんは、香川産の小麦をつかわないと讃岐うどんの商標を使わせないというのだけれど、麺のシコシコ感は本場モノだった。あとで、事情通に聞いてみると、このチェーン店オーナーが現地でちゃんと修業して“讃岐うどん”を名乗っているのだという。当然、私としても研修ツアーのモチベーションはあがり、滑り出しから印象度がアップしてしまった。旨いし、安いし、キレイで早い!

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DSC01163.JPGさて、さて、今夏、信州へ至るサービスエリアで見つけたお土産は、「東京スカイツリーまんじゅう」(栗饅頭)でした。 画像でのおすそわけでゴメンナサイ。

posted by Nina at 16:46| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

男性芸術家たちの本性

おあつうございます。

芸術家と称される人々は、その作品の輝きによって後世までも称賛される。従って、ファンが絶えないが、実はけして女性に誠実であったかと言えば、気が多すぎる位だというのが改めて分かり、わたしとしては残念至極だ。

ロダンもですが、ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。常に取り巻きが欲しい。92年間の人生で、正式な妻以外にも何人もの愛人を作った。絵を描いているアトリエで女性が二人で取っ組み合いをしたというのもピカソの逸話だ。分かっているだけでも、ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。

パリに出て最初に付き合ったのは彼女がフェルナンド・オリヴィエ、18歳、ピカソが23歳のとき、「青の時代」「桃色の時代」をへて富と名声を得た31歳のピカソは、つぎに27歳エヴァという名前で知られるマルセル・アンベールと付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す」(J' AIME EVA)、「私の素敵な人」(MA JOLIE)などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなったがその間にもギャビー・レスピナッセと知り合った。

ピカソにおいては恋愛は活動の原動力、不可欠であったが、それこそとっかえひっかえ、悪びれることはない。最初の妻、オルガ26歳と知り合ったのは、ピカソが36歳のときだった。ピカソはバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ、1918年に齢37歳で初婚だ。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子〈パウロ〉が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなったが結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ただ、恋愛となると話は別・・・

ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止したが、複数の女性との親交も続いた。1927年、ピカソ46歳で、17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと出会い、1935年に娘〈マイア〉が生まれた。ピカソの死後、マリー・テレーズは自殺した。生活費が途絶えたとか??

1936年から1945年までは、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録したカメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係をもった。ドラが29歳、ピカソが55歳での出会いだった、彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあった・・・。オルガとの離婚に向け、話し合いの最中にも関わらず、複数愛人を作った。ゲルニカを製作中のピカソのアトリエでドラともう一人の愛人マリ―が鉢合わせになり、「どちらを取るの?」と問われたピカソは、「戦って決めればいい」と言い放った。
この愛人2人が、その言葉にまんまと乗せられ取っ組み合いを始めたというから酷い話だ。次の恋人が出来ても終わったはずの妻や愛人と、旅に出たりもしているのは、どっちもどっちなのだろうか。自分で稼いだから、追い詰められなかったかもしれない。

1943年、ピカソ61歳で21歳の画学生フランソワーズ・ジローと出会い、1946年から同棲生活を始めた。ピカソはフランソワーズの知性に魅了されていったんだそうです・・・そしてクロードとパロマが生まれた。理想的な生活は幸せのはずであったが、ピカソの欲深さは尽きることを知らない。フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、結局、10年余りで終焉を迎えるた。このことはピカソに大きな打撃を与えた。「どんな女だって、わしのような男から、去ってゆきはしない。ここを出ることは、砂漠に行くようなものだ」。ジローは「砂漠で生きる運命にあるなら、そこで生き抜いてみせます」と言ったと言う。 1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、1970年に米医学者と再婚して米国に移住しています。それでもピカソは女性という生き物への執着は衰えるところがない、またしても別の相手に興味を示す。

嫉妬からか、後にこのフランソワーズがピカソとの生活について暴露本を出し、ピカソと子供との間にも断絶が生じるのであった。別れた後も、さまざまな愛憎劇を繰り広げたジロー。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。

ジェネヴィーヴィ・ラポルテが20代半ばの時、ピカソが70代で愛人関係になったが、1961年にはいよいよ最後の妻となる26歳ジャクリーヌ・ロック(陶器工房で働いていたのを見染めたモデルとして)出会った。時に旅行をし、時に闘牛を見学に行くなど、徐々に時間を共有し合う関係になった。 当時フランソワーズが、クロードとパロマの認知を得たいと考えたので、ピカソはフランソワーズには「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。ところがフランソワーズが相手との協議離婚が成立すると、ピカソは既にジャクリーヌとし結婚し、世間はピカソの当てつけだと見ていた。1955年の前妻オルガの死に伴い、8年の交際の後、79歳のピカソと37歳で二番目の正妻になった。ジャクリーヌは年老いた男には、それがまるで母親であるかのように心の支えとなり、同時に良き理解者となった。1973年4月8日、ピカソは91歳にしてこの世を去る。ジャクリーンはピカソの死後に自殺した。ピカソに愛された女性が、自殺または気が触れるなど次々と不幸な最期を迎える中、ジローはただ一人生き残り、暴露本も出し、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)のは救いです。さすがに若い時は女優のような美しさの人でした。

ピカソはアトリエには妻さえも入れなかったが、鳩は特別に入れていた。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。娘のパロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、現在はティファニー社のデザイナーとして活躍している。

至高の芸術を目指して成功する人は一般人からすると傲慢、そしてしぶとく長生き。若くて邪心のない美しい女性たちは、彼らにインスピレーションを与える、が彼女たちが成長してより多くを知り、彼を正すと、とうとまれるようになる。彼らが心から愛を欲するのは芸術の女神からだけか。より美しい(人間は年をとり、分別もつくから)無邪気な妖精をハンティングし、捉えて標本にするのに何の憚りもいらないと思っている。一方で、青年がこのように女性の下僕になる場合はあるのでしょうかね。谷崎潤一郎の「春琴抄」は切ないほどにお嬢様に従い、目をつぶすとか、でも実話を下地にしたのじゃないのでしょう。

男女の文化格差の歴史もこんな具合だけど、日本は源氏物語を書いた世界で最初の女流文学者・紫式部がいるというのを慰めにしましょうか(でも、源氏の君に憧れる女たちの恋愛心理からすると、しょうがない宿命なのでしょうかね)。
posted by Nina at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

凌ぎやすい週末だが・・・

相変わらず、欧米株は乱高下しています。欧州の銀行の信用不安、欧米景気の減速失速が影響してるのでしょう。リーマンショック後の欧米後退、アジア躍進はより鮮明になりつつあるとは思います。円高もここまで来てしまうと、国内で耐えるのは難しいと更に中小企業は国外に出ざるをえないのでしょう。党首選も近々といわれるが、千葉初の総理大臣が生まれるなどということもありそうです。民主党員であるなら外国人でも党首選に投票可能だとか言われますが、ホントのところどうなっているのでしょう。

今日は湖北公民館で合同作陶展を見てきました。毎年、楽しい作品が見られるので一つ一つ丁寧にみていると時間があっという間にたってしまいます。いつもは、窓越しに桜の花見のような場所でお抹茶をいただいて・・・・。今年は3.11のために延期となってこの時期に開催されました。 素敵な陶器を頂いてもいいそうで、いくつかお土産に頂きました(*^^)v

湖北と言えば、私のお気に入りの中華店:龍鳳館(湖北南口駅前通り)があります。ここのジャージャー麺が凄く美味しい。最初にジャージャー麺を食べたのは、20年以上も前で銀座の近鉄飯店、もうその店はない。でも、今まで食べた中でここが一番の美味しいと思います。私の観光研究の仲間の中に、ジャージャー麺で論文を書いている人がいますが、世の中には色々な研究をする人がいるし、人生は何で身をたてるか分かりませんね。

ところで日本の中華店ならラーメンは必ずありますが、ジャージャー麺がメニューにあるところはまだ限られています。そこで、ジャージャー麺がおいてあれば、迷わず注文します。が、かなり作り方に巾があり、甘すぎる、きゅうりの切り方が違うとか、麺が熱い、冷たいとか、決定的な味は肉みそなのに作り方が相当違うためにガッカリしてしまう場合もけっこうあります。今日は、お気に入りの店のをカメラに撮ろうと思って用意していたが、つい先に箸が出てしまい、食べかけを写すことになりました<(_ _)>。 因みに、デザートがついて750円です。ジャージャー麺の好きな方は、一度行って食べてみてください。そして、もし他のジャージャー麺の「美味しい」店をご存知の方は、nainakaizu@gmail.comまでメールして教えてください。 
                        
                             ジャージャー麺 (クリックで拡大可)
                             DSC01162.JPG

posted by Nina at 17:22| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月17日

子どもの未来のために?!

高橋はるみ北海道知事は、2003年、自民党推薦、公明支援を受けて北海道知事に立候補して当選し、現在3期目だ。大阪府の太田房江(2000年-2008年まで在職)、熊本県の潮谷義子(2000年-2008年まで在職)、千葉県の堂本暁子(2001年から2009年まで在職)に続く全国4人目の女性知事となった。富山県出身、一橋卒後、通産省入省。祖父は富山県知事(2期)、父は日本海ガス社長・インテック創業者、弟に日本海ガス社長・元日本青年会議所会頭がいる。04年に胃がん手術を克服。ホームページをみると「子どもの未来のために」をモットーとしている。

さて、16日北海道道議会は電力泊原発3号機をめぐり、営業運転再開の是非を議論する産炭地域振興・エネルギー問題調査特別委員会を開いた。高橋はるみ知事が出席し、終了後に再開容認を国に伝える方針だったが、道議から地元の合意形成が不十分との批判が噴出。この日の容認を断念した。ただ、高橋知事の考えに変わりはなく、17日にも容認を表明する見込みだ。

丁度、知人から毎日新聞の記事( 6月30日)のメールがあり、興味深いのでご紹介まで。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110630-00000007-mailo-hok


 高橋はるみ知事の政治資金管理団体「萌春会」に対し、北海道電力役員が毎年、個人献金していることが分かった。29日の道議会で共産党の真下紀子道議(旭川市)の一般質問に対し、高橋知事が明らかにした。北電役員の個人献金を巡っては、07年の道議会で共産党道議が「形を変えた企業献金」と問題視していた。

 政治資金規正法は企業が政党以外に献金するのを禁じているが、高橋知事はこの日の定例会見で、「企業献金ではないので、(今後の献金も)誤解のないような形で受け入れていく」と話した。ただし、献金した人数や金額については「手元に資料がない」と述べた。

 また、道は同日、05年3月〜11年3月に退職した部長級3人と課長級1人が、北電と関連会社に再就職していたことを明らかにした。道の再就職要綱では、退職前5年間に在籍した職場と密接な関係にある企業への再就職は退職後2年間自粛すると規定しているが、道は「4人は抵触していない」と説明している。

posted by Nina at 10:51| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月15日

21世紀の平和へ、竹島問題の解決

竹島は、島根県の隠岐島北西約160キロの日本海にあります。この島が「日本領の竹島」なのか、「韓国領の独島」なのか。これが「竹島問題」です。

日本の住所で言えば、島根県隠岐郡隠岐の島町です。東島(女島ともいう)と西島(男島とも)の2つの島と約30の岩礁から成り立っています。全部合わせても面積は0.23平方キロ。東京の日比谷公園ほどの広さしかありません。水源もない岩場ばかりで、人が住めるような環境ではありません。しかし韓国は、ここに警備隊を常駐させ、「ここは韓国領の独島(トクト)だ」と主張しています。この問題をめぐり、とりわけ韓国が神経を尖らせるのは、かつて日本が韓国を支配していたという歴史問題が存在しているからです。島根県が竹島を自県に編入した1905年は、韓国にとって屈辱の年だったのです。ここに住民登録している韓国の国民もいるのですが、日本では住民登録はありません。


■古文書の解釈めぐり対立
 日本も韓国も、この島について書かれた歴史文書の文章を引用して、それぞれの領有権の正当性を主張しています。しかし、同じ古文書を引用しても、文章の解釈が異なり、論議はかみ合っていません。しかも、かつては竹島の北西にある鬱陵島(うつりょうとう・韓国領)を「竹島」と呼び、竹島を「松島」と呼んでいた時代があるため、話はややこしくなってしまいます。
 
 そもそも竹島が日本の領土になったきっかけはアシカでした。竹島にはかつてアシカが多数生息していて、1903年、隠岐島の人が皮革をとるためのアシカ猟を始め、翌年になって、この島を日本の領土に編入して自分に貸与するように明治政府に申し入れたのです。これをきっかけにして、明治政府は、ここが無人島でどこの国のものでもないことを確認したとして、1905年1月、日本の島根県に所属させることを閣議決定しました。
 これを受けて当時の島根県知事は、竹島を島根県に編入する告示を出しました。これが、2月22日だったのです。その9か月後の1905年11月、日本は韓国(当時は大韓帝国)の外交権を握りました。日本が大韓帝国を属国としたのです。

 そして1910年には、日本は大韓帝国を日本の一部にしてしまいます。これが「韓国併合」です。この後、日本が第二次世界大戦で敗北するまで、朝鮮半島は日本の植民地でした。韓国の人にしてみれば、「日本は朝鮮半島を植民地にする戦略の一環として、韓国の領土である独島を奪った」ということになります。

■戦後、竹島も含めて放棄したのか
 第二次世界大戦で敗れた日本は、朝鮮半島を放棄します。このとき、竹島まで手放したかどうかが問題になりました。連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が、1946年1月、日本政府の行政権が及ばない島々を列挙する指令を出したとき、その中に竹島が含まれていたからです。ただし、このとき同時に、これらの島々が最終的にどこの国のものなるかを定めたものではないということも書いてありました。最終的な決定は別に定めることになっていたのです。ところがその後、連合国軍として、竹島について方針を出さなかったため、韓国は、「これで竹島が日本のものではない(つまり韓国のものである)ことが決定している」と解釈するのです。

 1951年9月、日本は連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、日本の独立が回復しました。この条約の中で、日本の領土について、日本は「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」を放棄することが書かれています。放棄する島に竹島が含まれていないのです。これを根拠に、日本は「竹島は日本が放棄していないのだから日本領だ」と主張しています。

 これに対して韓国は、「名前が出ている島は単に例として挙げられただけであり、竹島の名前が例示してなくても、日本が放棄した朝鮮の領土に含まれる」と主張しています。さらに、「韓国はサンフランシスコ講和条約の締結国ではないので、講和条約に関係なく自国の判断で領土を決定できる」とも主張します。

■韓国は李ラインで実効支配へ
 1952年1月、当時の韓国の李承晩(イ・スンマン。当時の日本は「り・しょうばん」と呼んだ)大統領は、「隣接海洋主権」を宣言します。韓国周辺の海域は韓国の領海であるとして、韓国周辺の海域に「平和線」を引き、「この線の中は韓国の領海だ」と主張したのです。日本はこの線を「李(り)ラインと呼びましたが、この線の内側に竹島が含まれていました。つまり李大統領は、「独島は韓国の領土だ」と一方的に宣言したのです。これ以後、李ラインの内側に入った日本の漁船は、次々に拿捕(だほ・捕まること)されました。中には韓国側から銃撃を受けて死亡する漁船員も出ました。

 また、1954年には韓国による竹島の実効支配が始まったのです。韓国は竹島に警備隊を常駐させ、灯台も建設しました。海上保安庁の巡視船が近づくと、銃撃されることも起きるようになったのです。それ以来、日本政府としては、外交交渉で解決をはかるという方針をとるにとどまっていました。

■日本は、国際司法裁判所への二度の提訴
 日本はその後、国際司法裁判所に提訴することを求めましたが、韓国はこれを拒否します。国際司法裁判所は、国家間の紛争を扱う国連の組織です。しかし、独自に調停に入ることはせず、紛争当事国の双方が了承して初めて審理に入る仕組みになっています。日本が提訴を提案しても、韓国は、「独島は韓国の領土であり、領土紛争など存在しない」と主張して、提訴を認めなかったのです。こうして、韓国による実効支配の実績が積み重なっていくことになります。

■日韓交渉では棚上げになった
 第二次世界大戦後に韓国が建国された後も、日本と韓国の間には国交がありませんでした。国交を結ぶための交渉は1951年から始まりました。この日韓交渉では、日本の植民地支配について日本が韓国に賠償金を支払うかどうかが大問題になり、竹島問題は棚上げされてしまいました。竹島までも議論することになると、日韓交渉が行き詰まることは目に見えていたため、それを避けたのです。交渉の過程で、日本の外務省の首脳が、「竹島が日韓交渉進展のために邪魔になるのなら、いっそのこと爆破してしまえばいい」と発言したこともありました。1965年、日本と韓国は日韓条約を結びました。日本は韓国に賠償金を支払わない代わりに、「独立祝い金」を贈ると共に、韓国の経済発展のための経済協力に資金を提供することで話がまとまったのです。竹島問題は、棚上げのままでした。

■竹島周辺で漁船のトラブル続発
 こうして、とりあえず竹島問題は棚上げしたまま、日韓は関係を深めていきますが、竹島周辺の海域では、その後も緊張状態が続きました。韓国は竹島を独島という領土だと主張していますから、そこで島根県の漁船が竹島周辺の海域で漁業をしようとすると、韓国の漁船と漁場を奪い合いになったり、韓国の警備艇が来て追い出されたりするということになります。
 

 ★排他的経済水域とは、領海ではなく、他国の船が自由に往来できるものの、漁業や海底の資源採取などの経済活動をすることは、その国の許可がなければできない水域のことです。竹島は日本と韓国の両方が領土だと主張していますから、竹島周辺の海域も、双方にとって領海であり排他的経済水域ということになります。
 
 このため日本と韓国が話し合った結果、日韓双方の漁船が、相手方の排他的経済水域でも漁業ができるという日韓漁業協定を結びました。竹島をめぐっての争いはひとまず棚上げした上での“大人の”解決方法でした。しかし、それでも島根県の漁船は、自由な漁業ができないことが多く、困った漁業関係者の声を受け止める形で、島根県の条例ができたのです。せめて日本国民に竹島のことを知ってもらい、北方領土と同じように返還運動を高めようという狙いで、「竹島の日」を定めたのです。

■韓国では「独島はわが国の領土」が常識に
 このように、日本では島根県の人たちが何とか日本国民に知ってもらおうとしていましたが、韓国では、学校教育で必ず「独島はわが国の神聖な領土」と教えます。韓国の国民は誰でも独島を知っていて、「自分たちの国の島だ」と思っています。だからこそ、日本が「竹島は日本のものだ」と主張すると、日朝の歴史が蘇ってしてしまうのです。

 しかも韓国では、1982年に、「独島はわが土地」という曲が大ヒットしました。「ハワイはアメリカの土地、対馬は日本の土地、独島はわれらが土地」という歌詞の歌です。これでますます誰もが知っている島になっています。ここに、日韓の温度差があるのです。竹島は、韓国が実効支配しています。

■国際法では 50年で実効支配していた国に帰属
 国際法では、実効支配が50年続くと、その領土は実効支配していた国のものと認められることになっています。韓国が竹島を実効支配するようになったのは1954年。抗議のアクションをとらないと、国際法上も竹島は韓国になってしまいます。日本としては、韓国の実効支配を認めないというアピールをしておかなければなりません。そこで、毎年韓国に対して、「竹島は日本の領土であり、そこを韓国が不法に占領していることは認められない」という口上書を提出しています。

 また、海上保安庁の巡視船が時折竹島に近づいて、韓国側が「自国の領海」と主張している海域に入るという行動をとっています。「ここは日本の領土であり領海だ」というアピールしているのです。そのたびに、竹島周辺の海域では日本の巡視船と韓国の警備隊との間で緊張が走ります。

 未来の日韓関係に、どういう解決策があるのか、戦争による解決でない21世紀にするべきです。
 交流と友好の努力によって、互いにプラスになる選択を探していきたいのです。今世紀には、両国の女性たちも加わってネットを使って、解決の糸口をさぐれないものでしょうか?20世紀には、家長制度化の両国の女性たちは「銃後の護り」、「従軍慰安婦」としてでしか歴史にかかわれませんでした。両国の女性は、世界有数に男子よりも教育機会を得ているとも言われ、賢明な人類の選択を低減できる立場にあります。国家によって、進められた戦争を女性の力と協力で平和を目指して解決できないのでしょうか。

参考:イーウーマンHP
http://www.ewoman.co.jp/2005_news/gimon/15/04.html



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2011年08月14日

マニラ市街戦 〜死者12万 焦土への1か月〜

NHKhiで「ハイビジョン特集 証言記録 マニラ市街戦 〜死者12万 焦土への1か月〜」という8/5に放送された番組(の録画)を見た(再:[BS1]2007年 9/1(土) 後1:10−3:00)

今日は、62年目の戦争記念日である。(と同時に親父の11年目の命日だな〜・・・⇒本件と関係ないが・・・)
それで、NHKから色々な戦争特集番組が放送されているが、1945年2月3日から3月3日の太平洋戦争最大のマニラ市街戦。この証言ドキュメンタリーは、なかなか見応えがあった。
内容のあまりの悲惨さに、途中で見るのを止めたが、思い直してさっき(今夜)最後まで見た。

先に、沖縄戦争の映画「ひめゆり」を見たが、同じ手法で、当時の人の証言から、マニラ市街戦の惨劇を振り返っている。
そこには、一般市民が戦争に巻き込まれ、10万人もの犠牲者を出した過程が生々しく再現されており、自分としても、かなりのショックを受けながら見た。

番組のナレータにより、印象に残った場面を綴ってみる。
最初のナレータ。
「これは戦前アメリカの統治下の、フィリピン マニラの映像です。人口は100万。そこには美しい町並みがあり、東南アジアでも指折りの豊かさがありました。・・・
そのマニラが戦場となりました。1945年市民が暮らす町中で、日本とアメリカが熾烈な戦闘を重ねたマニラ市街戦です。わずか1ヶ月で破壊されたマニラの町並み。死者12万人。そのうち10万人はマニラの市民でした。なぜマニラは戦場となってしまったのか。なぜこれほどまでの市民を犠牲にすることになってしまったのか、あの時、マニラで戦った日本・アメリカの元兵士、そしてマニラの市民38人の証言によって記録します。・・・」

・・・・(火炎放射器で火達磨になって転げ回る人・・・・・)・・・

「1945年2月17日。フィリピン総合病院が米軍により制圧され、飢餓にあえいでいた7000人が救出されました。しかし降伏する兵士は少なく、日本兵達は地下室に逃げ込み、籠城を続けます。こうした日本兵に対して、アメリカは火炎放射器を使います。フィリピン総合病院から救出されたリカルド・ザルコさんはその有り様を目撃していました。
「あんな武器は使っちゃいけない。日本兵の体は油で揚げられたみたいになりました。それでも日本兵は転がりながら米兵を撃っていました。日本兵は死の間際まで戦っていました」

・・・・・・・・・
日本軍の掃討のために無差別攻撃をする米軍。
ゲリラ掃討の名の下の日本軍による殺戮。
それぞれの軍に味方した、フィリピン人通しの殺し合い。
・・・・・・・

「フォートサンチャゴに作られた地下壕。ここからはフィリピン人男性およそ600人の遺体が発見されました。
2月24日、イントラムロスで発見されアメリカ軍に押収された、日本軍の大隊の命令書(マニラ海軍防衛隊大隊至急命令)。『フィリピン人を殺すのは極力一カ所に纏め、弾薬と労力を消費せず処分せよ』・・・」

そして死者、
日本軍      16,555人
米軍        1,010人
フィリピン人  100,000人(米軍公刊先史より)

(最後のナレータ)
「ビューティフルダウンタウンと呼ばれた美しい町マニラ。そのマニラで普通の生活を営んでいた市民達、日本とアメリカ、大国どうしが戦ったマニラ市街戦。その戦場とされたマニラを逃げまどい、亡くなった市民の姿です。なぜ10万もの市民が犠牲にならなければならなかったのか・・・・」

1942年にフィリピンを日本に占領され、マニラを去る時にマッカーサーが言った言葉 「私は帰ってくる」・・・・・。
米軍は日本兵を掃討するため、フィリピン人の犠牲もやむを得ないとし、日本軍は、抗日ゲリラの掃討を理由にフィリピン人を犠牲に・・・・

この悲劇が、日本でどのくらい語られているのだろう・・・?(戦争をこれから勉強しようとしている自分には分からないが・・)
高校の日本史の教科書(山川出版p341)には、フィリピンについてこの様な記述がある。
「・・・その結果、日本軍は仏印・フィリピンをはじめ各地で組織的な抗日運動に直面するようになった。(注:日本の敗戦後、これらの民族解放運動は植民地の本国軍と戦って自力で独立を勝ちとり、結果的に、アジアにおける欧米の植民地支配は一掃された)」
いや、これしかない・・・。

マニラ市街戦でのマニラ市民の犠牲者10万は、原爆による広島の死者(被爆後5年間に)20万人以上、長崎の14万人以上、沖縄戦での民間人死亡者9.4万人にも匹敵する惨事である。
しかも、フィリピン市民は一方的に占領され、戦争当事国とは違う・・・・。

とかく戦争というと、『自国の犠牲』ばかりが前面に出てしまう。しかし、この番組は『事実はそれだけではない』事を指摘している。戦争の悲劇は、あまりに底が広いが、戦争体験を風化させないためにも、このような新たな切り口での指摘は重要だと思った。
また我々日本人は、韓国を筆頭に中国・アジアでの対日感情が非常に悪い原因がどこにあるのかを、(幾ら戦後世代だとはいえ)その文化を受け継いている者として、今一度自覚する必要があるかも知れない。
このドキュメンタリーを見ると、それについても「なるほどな・・・」と納得してしまう説得力がある。


参考HP:
http://emuzu-2.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/2_2eae.html
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2011年08月13日

引き裂かれた沖縄の兄弟

戦前より、沖縄は貧しいため海外への出稼ぎ移民が非常に多かった。琉球処分後、沖縄県となった以降には、本土からの差別も受け、正確な日本語の使用という厳しい指導もされた。

そんな状況の中で東江康治さん(琉球、名桜両大学の学長を務めた)と平之さん(琉大名誉教授)兄弟の兄2人も米国に渡った。兄たちは、アジア人への人種差別を受けながら、更に日本人というために敵性外人として米国社会の中での強い敵視にさらされた。兄の1人は徴兵を拒否したが、財産を没収されて日系強制収容所で3年半を過ごした。もう1人の兄は、米社会の差別と偏見に歯を食いしばり耐えるが、生きる道として米国社会へ忠誠をみせることを求められ、米軍人となることを選ばざるを得なかった。もし、沖縄に派兵されれば直接沖縄を攻撃するなどということも避けられない。遂には戦争末期の沖縄に赴くことになったのだが、通訳であったため戦うことなく最悪の事態から免れた。

終戦前年、沖縄大空襲以降の地上戦は壮絶だった。沖縄全土の中学生男子が戦場へと駆り出され、 戦前の教育は彼らを鉄血勤皇隊としていた。このため、兄は弟たちと戦場で「敵と味方」になる非情な運命にみまわれた。奇跡ともいうべき父との再開によって、壕の中の弟たちに投降を呼び掛けることになり、逆に2人の命を救うことができた。

戦前の沖縄には、大学や高校・高等専門学校といった高等教育機関は一つもなかった。師範学校・青年師範学校(大戦末期に高等教育機関化)のみだったが、戦後に米国留学した平之さんは「民主主義に触れ、誰でも平等に教育の場に受け入れる人々と出会い、米社会の懐の深さを感じた」という。

占領後の1950年に新制国立大学として琉球大学が誕生、その際は米国政府認定の大学という特殊な形での大学開設であった。戦後27年を経た1972年にようやく本土復帰し、大学は文部省に移管された。東江康治(あがりえやすはる)さんは、1984(昭和59)年 6月 1日 〜 1990(平成 2)年 5月31日の間、第11代琉球大学長を務め平和教育に力をいれた。

我孫子では、手賀沼公園入り口にある平和の碑の前で、市長をはじめ中学生代表の参加で毎夏行われるようになった原爆平和記念式典だが、この沖縄の兄弟の数奇な運命がドラマ化され放映されたのは同じ13日の夜だった。
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2011/110714-162.html

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2011年08月11日

手賀沼の蓮の華

  手賀大橋の旧沼南町側を渡って、手賀沼観光リゾートの温泉を左折すると蓮が群生している場所があります。年々株を増やして現在では12ha程にびっしり生い茂っているていると聞いていたので、一度行ってみなくてはと思っていました。お盆の時期に、群生する大きな蓮の葉っぱの間に涼やかに蓮の華が咲いているのを見るのはなかなかの光景でした。

 
   以前、地元の有志で実行委員会を作り「はすまつり」を開いて手こぎボートに乗って蓮の花を身近に鑑賞するなども出来たといいますが、ここ数年はやっていないようで、もっと観光資源として活かせたらいいのにと思います。我孫子市では、柏市と水上バスの提携などを申し入れたこともあったのですが、採算に合わないということなのか、話は進みませんでした。

   今年の手賀沼花火大会も休止ですが、あびこカッパまつりが間もなく(8/27)です。市民有志によるお祭りですが、以前につづいていた我孫子カッパ祭りを復活させて、手賀沼で楽しい夏の思い出つくりをしてもらおうというものです。子ども自転車ヒルクライム、子どもショップなどなど子どものイベントが一杯です。その他、ABK48(AKBではありません?!)の河童音頭、仮装コンテスト、模擬店にはご当地グルメ等なども参加、盛りだくさんでお待ちします。どうぞお子さん、お孫さん連れでいらして下さい。我孫子駅南口から公園坂、手賀沼公園一帯をつかっての広がりあるお祭りです。暑さ対策を忘れずに!



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2011年08月10日

日々これ是正

米国株が反発してくれました。8日の段階で売られ過ぎの状況で、「財政、金融両面でリフレ策が採れる日本株の相対的優位及び米国株の売られ過ぎと比較的早い底打ち」との予測が出ていましたが、幸いに回復できホットします。それにしても、世界的株安の契機となった米国国債の格下げを行った格付け会社の権限と責任、分析手法、格付け人の能力、倫理規程など、問われる必要があります。なんで、米国がダブルA+でイギリスがトリプルAなのか、合理的に説明できないでしょう。ムーディーズによると、日本はダブルA−なんだそうですが、あまりその評価を尊重しても混乱が起きてしまうでしょう。神の手が正しく働くように意識ある人は伝えなくてはいけないです。

また、昨日は長崎原爆記念式典が行われ、米国のVIPクラスが初参列となりました。在日米国大使館の首席公使で、米国政府代表として公式なものでした。式典後、報道陣に「米国政府代表がここに参加することでオバマ大統領の核兵器のない世界のビジョンをはっきり示すことになればいい」とコメントがありました。昨年は駐日米国大使が広島の式典に初めて出席しましたが、長崎は欠席でした。これで、核保有国の英、仏、露などを含め44カ国が参加し、過去最高となったのは評価できることではありますが、米国は今年も新たに核実験を行っており、二枚舌の核兵器縮小であって欲しくないと言いたいです。

思い返して、市議一期目から取り組んだ一つに当市の平和条例の制定がありました。一期目の市議活動の際には、長崎はもちろん、広島、沖縄の自治体視察を行いながら、条例制定の可能性を探りました。当市の被爆者の会の方と国際交流の関わりの中から長いお付き合いがあり、高齢化する被爆者の会の方たちが行ってきた慰霊式典(我孫子から出兵した方たちも広島駐屯の際に一次被爆、原爆投下直後の復興作業で二次被曝された)の維持などを相談されたことが始まりでした。先輩議員に相談を持ちかけたり、既に先進地である佐倉の取り組みなどを知って条例を制定する意義に気付きました。そして、当時は何故か平和を持ち出すとイデオロギーに抵触するなどと、左だ右だとのことになって議会の中ではまとまらないのだという懸念も囁かれていました。一年目の議員の強みで、出来る出来ないよりは市民からの依頼に誠心誠意で取り組んでみようと、打開策を探りました。

多くの方々の理解と協力を得られて、4年の歳月がかかりながらも制定に漕ぎつけました。二期目当初、市長が変わったばかりの議会で議案提出され、議会が我孫子の歴史認識をしてくれて、賛成多数で可決出来たのは我孫子市議会ならではだと思います。長崎を含め、広島へと市内中学校の代表が平和式典に参列、平和学習をして報告を行っています。こうした予算を継続的に執行できるのが条例制定の意義であり、高齢化した被爆者の代わりに原爆平和記念式典への参加を市職員が準備して、議員、学校関係者、一般市民の参列もされるようになりました。


●我孫子市原爆平和祈念式典

8月13日(土)午前9時30分(受付9時から、どなたでも参加可)


会場  手賀沼公園内「平和の記念碑」前(雨天実施)


内容

・市長、議員、生徒のメッセージ
・ 献花と黙とう(どなたでも参加)


* ノーネクタイで構いません。 申込みは不要

 

●映画「黒い雨」上映会

日時  8月13日(土)午前10時45分〜


会場  アビスタ 1階ホール 


内容  映画「黒い雨」上映


当日先着 150名 無料/申込み 不要



●「原爆に関する写真」と「平和祈念の折り鶴」展


開催日 8月2日(火)〜15日(月)


会場  アビスタ 1階ストリート


内容

・原爆写真パネルの展示
・原爆関連資料の展示
・市民の皆さんから提供いただいた「折り鶴」の展示



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2011年08月07日

官邸、津波への浅薄な意識が浮き彫り

2011年7月6日 衆議院予算委員会 赤澤亮正(自民)
実は9か月前、チリ地震2010年2月27日があったので自公による津波対策の法案が提出されていた。
posted by Nina at 11:48| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月06日

あきらめないで!

Erin.jpg  あきらめないで! 
    〜アニメ “Barefoot Gen” を見て〜 

 
             エリン・ハイムス


 高校一年生の時に日本について勉強しました。主に広島、長崎、そして原爆についてです。“Barefoot Gen”(←クリックするとYoutube『はだしのゲン』の映画冒頭シーン)という日本のアニメーションの映画を見るまで、広島について大した思いもありませんでした。けれどもこの映画を見るうち、私は何かとても強くうちのめされ、大きな疑問を持つようになりました。なぜ、私たちアメリカ人が戦争終結のために、この兵器を選んだのか、多少とも困惑したのを否定することはできません。

 ショックだったのは、原爆の熱地獄で人々が溶けてゆくシーンでした。助けに行けるはずはないのに、私はなんとかそこへ行って救ってあげたい気持ちになりました。私にもその痛みが伝わり泣きたくなりました。

 からくも生き残った人々のたくましさに、私は目を見張りました。おかげで涙は引っ込み、彼らの勇気に感心しました。もし同じような辛い目にあうことがあっても、立ち直る強さを持ちたいと思ったものです。何が彼らを強くさせ、希望のないどん底から這いあがらせたのか、不思議でなりませんでした。日本の若い世代は、彼らの先祖が受けた死の痛みを忘れないでしょう。そんなことが私に起こったら、どうなるか想像できませんが、多くの日本人が出来たように、私も前向きに生きたいと思います。

 その時代の高校生だったら、私の考えをまとめて、当時の大統領ハリー・トルーマンに送り、日本両国民に与える影響について理解してもらうように行動しただろうと思います。
 私は今、日本語を勉強しています。

海津新菜・監修 2001 『ちきゅうTALK』 より 
               (原文の英文、フリガナ付訳文でバイリンガル編集)
                 ↑ 
          我孫子市民図書館で貸出できます

posted by Nina at 00:40| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月05日

炉心溶融のシュミレーション画像


独立行政法人原子力安全基盤機構 防災対策部が平成20年8月作成の専門家向けシュミレーションの画像で、YOUteubeで見られます。 ここに掲載のコメントは、そのサイトに投稿したものを改めて編集したものです。

  過去から何度も日本の原発の津波対策の-甘さは国会等でも取り上げられ、津波を予想し-ている人や津波を必然と捉えている人は実際にいて、国の議論にま-でなっていた。しかし、対策は莫大な金もかかるので(付け加えれば、「そんな対策をすれば原発は危険だということになり、推進し難く-なってしまうので)、津波を予想した人は多くいた-のに、政府や電力会社は全くとりあおうとせず無視し続けたところに元凶があったのです。

さすがに、専門家たちへのシミュレーションではメルトダウン、メルトスルーの可能性、時間が想定されているのに-、一般には「絶対に安全」であるとするため発表しなかった。そして、政府は避難区域を小-さめに設定し、その結果、住民の-方々は被曝された。

NHKがETV特集で報じた内容によれば、マークI-型は建設コスト削減のために格納容器を小さく設計したことが画期-的だったがそのために容量的に発生した気体の限度容量が少ないた-めに危険性が高いこと、ジルコニウムの酸化から水素が発生すること、などは製造元のGE社では1990年代に等-に議論しつくされ、日本側がそれを把握していたのは間違いなく、だから体裁だけのベ-ント機構が後付で設置されたと考えられます。


欧州では、ベント=生蒸気をやむを得ず排出する最後の手段-=にも厳しい基準があって直接排出し-か認められていないので、他の配管と共用は厳禁です。
ジルコニウム金属は、反応により水素を発生-する。つまり、水素の最大の特徴は、「軽い」ので、_| ̄|_ のように組んでしまうと  ̄ の部分の僅かな隙間から漏れてしまうのだ。そして、事故の検証から明らかになったのは、その杜撰(ずさん)な設計のために-より水素爆発が起こりやすくなっていたという致命的欠陥があった-ことです。

パイプ破断による冷却材喪失事故はシビアアクシデントの代表とさ-れ、これまでも想定はされてきた。しかし、メルトダウン(若しくはメルトスル-ー)に関しては、“配管が破断することなど-無いしECCS(緊急炉心冷却装置)もあるわけだから、絶対に有-り得ない”、“フェールセーフ(多重防護)だから原発は安全だ”と-説明したのです。

◎「想定はされながら対策はされてこなかった」こと
冷却材喪失
-後に、『全ての注水に失敗するケース』がおきると、その末期はメルトスルーが待っている。
もちろん、“メルトスル―は絶対あってはならないことであって、“絶対に無い-”と言わねば推進できない
被曝に過敏な国民にはメルトスル―を想定したら、原発は危険で推進できなくなって-しまう。
さらに「(ECCSによる)注水に失敗することなど有り得ない-」、「燃料が溶融することなど有り得ない」として原子力政策が、官民学一体で推進されてきた。

しかし、全交流電源喪失(SBO)も想定されてこなか-った。福島では注水に必要な電力の供給源を全て失ってしまって、メルトダウンが実際に起こった。要は、都合の悪いことは想定されてこなかった

ドイツには原発が17基、うち7基は老朽化によりちかく廃炉とな-る。かの地の格納容器肉厚は50cm〜180cm。
一方、
-絶対安全と嘯いてきた我が国の格納容器肉厚はせいぜい3〜5cm-程度。いかにコアである圧力容器や溶融燃料の超高温(摂氏400-0度前後)を無視し、コスト削減した安全神話だったか、今さら知らされた。


関西では、施設面では三菱が担当して-おり、改良型の加圧水(三菱)で、数段メルトダウンには強-い。東電の旧式沸騰水(東芝・日立)とは違って、加圧水は熱交換器を通しているので、効率は落ちるが、-タービンまで汚染水が来ないのだという。高架にして電源さ-え津波で流されないようにすれば、関西まで停止する必要はないは-ずだとの考えを言う人もある。

東電の福島第一は他の配管-を一部流用する安易な工事で、福島第一の1〜5号機は、シュミレーションが映像のBWRマークTで、4基が大事故を引き起-こした。福島第二では、同規模の地震と津波の被害にあったが、稼動していた4基が改良型のBWRマークUで安全に冷温停止して-いる。女川、敦賀、島根の1号機は大事故を引き起こしたマークT型で、いずれも稼動は停止だが、再稼動はせず、廃炉にして欲しいと指摘する。

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2011年08月03日

サーフェイスフュージョンに進むのか

炉心溶融(メルトダウン)→ 炉心が完全融解した状態→ 原子炉容器貫通(メルトスル―)→ メルトアウト(外界に放射性物質をばらまいている状態)燃料に不純物の混ざって温度が下がった場合は、チェルノブイリでは原子炉の容器は二重構造ではなかったが、容器を抜けた溶融燃料がコンクリートなどの物質を溶け込ませて溶岩状燃料含有物質、外観から「象の足」と呼ばれるものを形成し、どこかで浸食は止まる可能性もある。いずれにせよ容器外へ燃料が漏出すれば、大量の放射能汚染を引き起こすことになる。また、地震によって建屋のコンクリート躯体は損傷を受けている可能性が高く、クラック等から燃料が地下外部へ漏れ出る可能性もある。→サーフェスフュージョン(溶け出した燃料が大地を侵食した状態 以後 数百年は居住不可 ) 溶け出した燃料がさらに地中深く達していくのかどうか、その場合どのようなことが起こるのかについては未明の領域。いずれにせよ、土壌や地下水汚染は深刻なものとなる。大量の地下水に触れると水蒸気爆発を起こすという説もある
もし溶融体が地下水を直撃していれば、いくら循環冷却しても放射性物質の拡散は防ぐことはできません。地下水の流れを止めない限り、周囲の海は汚染され続けるのです。汚染を防ぐためには、原子炉建屋の地下の四方に遮蔽壁を作るしかないでしょう。溶融体や汚染された土壌と、地下水の接触を断つのです」
原子炉の構造的に見ても、メルトアウトが起きている可能性は高い。

解説するのは、元東芝の原子炉格納容器の設計技術者だった後藤政志氏だ。
「圧力容器の鉄鋼の厚さは、十数cmもあります。一方の格納容器の厚さは、20〜30mmしかありません。また圧力容器は70気圧にも耐えられるように設計されていますが、格納容器の設定は4気圧です。もし圧力容器を溶かすほどの核燃料が漏れ出たら、格納容器はひとたまりもない。ましてや原子炉建屋地下のコンクリート壁などは単なる覆いであって、超高温の溶融体を防ぐことはできないのです。そもそも圧力容器も格納容器も、炉心溶融することを前提に作られていません。すでに設計上、破綻しています。ですからメルトダウンして何の対策も採らなければ、溶融体が圧力容器から格納容器を突き抜け、原子炉建屋地下の床に溶け出てしまうのは時間の問題なのです」

メルトアウトによって撒き散らされる放射性物質は、より猛毒なものとなる。
地下から地表に溢れ出た汚染水の中には、半減期が8日のヨウ素や2年ほどのセシウムなど、水の上部に溜まりやすい軽い放射性物質が多く含まれる。
だが地下から漏れ出るのは、半減期が29年ほどのストロンチウムや2万4000年にもなるプルトニウムなどの放射性物質だ。
特にプルトニウムは、人体に入ると50年にわたり内臓を破壊し続け、最悪の放射性物質≠ニ言われる。

中部大学総合工学研究所教授で、元内閣府原子力委員会専門委員の武田邦彦氏が語る。
「地下から流れ出るのは、プルトニウムなどの水の下部に沈殿しやすい比較的重い放射性物質です。核燃料が地下に浸透していれば、こうした超猛毒の物質が海や川、池、湖、井戸など、地下水脈が行き着くあらゆる場所にたれ流されます。ただし、地下は放射線量が高過ぎて人間は近づけないため、誰も現状を正確には把握できていないでしょう

http://monsoon.doorblog.jp/archives/52336696.html  フクイチ ウオッチカメラ
メルトアウト 6月14日

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/11152  メルトアウト 現代ビジネス
 2011年07月08日(金) フライデー メルトアウト「核燃料」地下水直撃の恐怖!

posted by Nina at 11:48| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月01日

福島の新工程表はデタラメ!?

「脱原発」の姿勢を強める菅直人首相だが、その足元に横たわる原発事故は、本当に収束に向かっているのだろうか。「工程表」の妥当性は、原発の現状は、そして政府・経済産業省・東京電力の協力関係は−−先週号に引き続き、福島第一原発"最高幹部"の一人が語る「フクシマの真実」第2弾!! (「週刊朝日」取材班)

下記本文の後半に、「現場ではもっと広い範囲、少なくとも半径50キロは避難していると思った。なんといっても、あれだけの爆発だったんですから。結局、避難範囲が半径3キロ圏内と聞いたときも、「大丈夫か?」と思ったのが正直な印象ですね。」と語っているのは驚愕です。20キロではなくて、50キロと言ってるのです。


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 福島第一原発の最高幹部が語る「フクシマの真実」 後編
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 新工程表はデタラメ
 週刊朝日2011年7月29日号配信
 http://www.wa-dan.com/article/2011/07/post-138.php
 


 菅直人首相は7月13日夕、首相官邸で開いた会見で、今後の国のエネルギー政策について「脱原発依存」を進める考えを示し、力を込めてこう語った。

「この大きな事故を踏まえて原子力政策の見直しを提起するのは、その時代の総理の責務だ」
 いまこそ日本は原発に頼った社会構造を改め、自然エネルギーをはじめとする"安全"な代替エネルギーにシフトすべきだ−−そう主張する方向性そのものに異論は少ないだろう。しかし、あまりにもいまさらである。
 時事通信の世論調査(7月7〜10日に実施)では、菅政権の支持率は、前月から9・4ポイント急落して12・5%。これは2009年9月に民主党政権が誕生して以来、最低の数字であり、あの森喜朗政権末期(01年4月)の支持率10・8%に迫る勢いだ。
 菅首相から人心が離れていく、その理由は簡単だ。就任以来、繰り返されてきた"思いつき"と"自己都合"の言葉の軽さに辟易としているのが、この数字から読み取れるではないか。その首相の口から発せられる「脱原発」路線に対し、かえって反発が生まれているとしたら、まったく皮肉な話だ。
 福島第一原発の事故収束に向け、政府は7月19日、「新工程表」を発表する。
 東京電力が4月17日に発表した"旧"工程表では、最初の3カ月程度が、確実に原子炉を冷却し、放射性物質の放出を減少に向かわせる第1段階(ステップ1)、そしてさらに3〜6カ月かけて、原子炉を100度未満の安定状態に保つ「冷温停止」にし、放射性物質の漏出を大幅に抑える第2段階(ステップ2)に至る、としている。
 いま、ちょうどステップ1の目標期限を迎えたところだ。しかし、政府と東電が掲げるこの工程表は、果たして信用に値するものなのだろうか。実は、現場の意識とは大きな乖離があるという。これまで継続的に本誌の取材に応じてきた福島第一原発の「最高幹部」が、こう語るのだ。
     ◇   ◇
 この"旧"工程表については、4月の本社発表に先立って、実はフクイチ(福島第一原発)の現場からは「(収束までに)約1年半」というスケジュールを想定したものを出しました。これでも、熟練の作業員をフル動員することを前提にして、ようやく達成できるレベルです。

 ところが本社からは、
 「こんなのでは遅すぎる。菅総理が納得しない。(5月下旬の)サミットでどう説明するんだ」
 と言われました。結局、本社がいろいろと継ぎはぎして「9カ月」の工程を作ったのです。

 工程表では3カ月+3〜6カ月の「2ステップ」などと謳(うた)っています。ステップ1は何とかなるかもしれないが、問題はステップ2。このスケジュールどおりなんて到底、無理な話ですよ。放射線量の限度を超え、どんどん熟練作業員の人数が減っていく中で、どうすればできるのですか。
 無人ロボットが導入されましたが、あんなのが何台あっても最後の最後は「人手」が必要です。その「人手」の作業を阻むのが、建屋の地下にたまった汚染水なのです。
     ◇   ◇
 実際、工程表を進めれば進めるほど、その見通しが甘かったことが明らかになっている。すでに東電は5月17日、「新しい工程表」を発表した。4月の発表から、わずか1カ月での「修正」である。
 最大の修正は、原子炉の冷却方法だった。もともとは、1〜3号機の格納容器を水で満たして核燃料を原子炉圧力容器ごと冷やす「格納容器冠水」方式を予定していたが、これを断念。というのも、格納容器に穴が開いているようで、注水しても一向に水がたまらないことがわかったためだ。
 そこで新たな方策として打ち出されたのが、いまようやく動き始めた「循環注水冷却システム」だった。

◆1〜4号機はどれも危ない◆
 この「冠水」方式にしても、現場は当初から「メルトダウン(炉心溶融)で格納容器に穴が開いている可能性があるので難しい」と指摘していた。しかし、「実際に穴が開いているのを見たのか」という変な話になり、この方式が政府に上がってしまった。
 一方の「循環注水」方式は早い段階から候補に挙がっていたが、装置を準備するのに時間がかかるからと却下された。それが、いきなり復活したのです。
 工程表には、細かい工事内容も書かれていますが、実際には予定されていたよりも1・5〜2倍の時間がかかっている。「循環システム」設置だって、予定の1・5倍の時間がかかりました。本社の作った工程表は、あくまでも理想で、現実性は乏しい。
 さらに今後、この暑さの中で作業は困難になります。作業員たちの健康のため、いま工事は朝6時ごろから始め、午後2時ごろには終わらせている。こんな環境の中で、工程表どおりに実現させるのは難しい。それに、1〜4号機はそれぞれ状況が違うので、予想できない事態もあり得ます。
 19日に発表される新工程表でも、期日の修正はあまりないようです。というのも、期日については政府の意向が強く、政治的な責任問題が発生するとかで、なかなかいじれないらしい。結局、理想論を前提に、結論ありきでスケジュールをはめ込んでいるだけ。現場としては、国民に本当のことを知らせるべきだと思っています。
     ◇   ◇
 驚愕の証言である。いま発表されている工程表は、まったくの"デタラメ"だというのだ。
 実際、現場は事故収束に向けて着々と工事を進めつつも、決して事態を楽観していない。作業を妨げるいちばんの要因は、やはり「汚染水」だった。
     ◇   ◇
 ずっと「水」に苦しめられてきました。原子炉を冷やせば冷やすほど汚染水が増え、それが建屋の地下、トレンチ(タービン建屋外にある地下の作業用トンネル)に大量に流入していくという悪循環です。大雨が降ると敷地内に流れ出す可能性もあり、作業員が近寄れなくなる。海に流れ込む恐れもある。いま、ようやく「循環注水冷却システム」が動き始めましたが、まだ安定したとはいえない。
 しかも、もしも核燃料がメルトスルー(原子炉貫通)しているならば、たまった汚染水は非常に高濃度になっている。チェルノブイリ事故の際は、すぐに地下水対策をしましたが、それは日本の技術だった。地下にトンネルを通し、セメント、ベントナイト(粘土鉱物)などを注入して固めてしまう方式です。これをフクイチでも実施すべきではないかと思う。国土交通省はこうしたプランを数多く持っていますが、所管の経産省との連携がうまくいっていないのか、適切と思われる対応策が講じられていないのが現状です。現場からも本社にプランを上げているんですが、何の動きもない。
 また、4号機が危ない、1号機がダメらしい−−などといろいろ言われますが、私から言わせれば、どれも危ない。工程表では汚染水の流出源についても、詳しく触れられていません。
 たとえば、1号機は格納容器から漏れているようです。しかし、その場所が特定できない。穴の大きさもわからない。つまり、何もできない。安易にどれくらいで収束すると断言できないのです。
 3号機では、1、2号機に続いて水素爆発を防ぐための窒素注入がようやく始まった。しかし、地下に大量の汚染水がたまって苦しい状況には変わりない。建屋内に入ることはできましたが、内部は飛散した瓦礫で埋もれていて、燃料プールの確認も大変な状況です。
 3号機、4号機に共通していえるのは、建屋の強度に不安があることです。かなり崩れていて、作業中に上からコンクリート片が落ちてくることもあり、作業員も怖がっている。
 特に4号機の燃料プールは、早急に手だてを講じないと危ない。4月の最大余震の際は「倒壊を覚悟した」と言う作業員もいたほど。すでに建屋の補強工事に着手し、作業は順調に進んでいますが、本格的な台風の季節の前に何とか対応したいところです。
 2号機も、ひどい状況です。作業の間、汚染水があふれたり、漏れたりしないかとヒヤヒヤの連続でした。ただ、少なくとも配管などは爆発でやられていないので、1号機、3号機とはちょっと状況が違いますね。とりあえずは最悪の危機は脱出したと考えています。
 最近でも、1〜4号機の映像を中継している「ふくいちライブカメラ」を見て、「白い煙」が出ているとの指摘がありますが、あれは燃料プールの使用済み燃料が熱を持っているため、湯気みたいなものが出てそう見えるのです。プールから水が漏れているので十分に冷やせず、熱が下がらない。それで水蒸気が出る。もっとも、その「湯気」には放射性物質も含まれています。
     ◇   ◇
 現場は事故から4カ月たったいまでも、本社の"事なかれ主義"、そして官邸のパフォーマンスじみた言動に振り回され続けている。その矢面に立たされてきたのが、現場で陣頭指揮を執る吉田昌郎所長だ。
 震災翌日の3月12日早朝に、菅首相が断行した「現地視察」も、現場にとっては大きな"弊害"だった。
 11日、原発事故の状況が刻一刻と深刻化する中、深夜になって菅首相は突然、第一原発の現場を視察すると言いだす。格納容器内の圧力が上限を大きく超え、一刻も早くベント(排気)の必要があるとされていたころだ。菅首相は「一向にベントをしない現場に活を入れるためだった」などと説明しているが、この視察が結果的に、現場を混乱させることになったという。
     ◇   ◇

 12日早朝(午前7時すぎ)に菅さんがこちら(フクイチ)に乗り込んできたときは、本当に驚きました。確かに事前に「総理が来る」との連絡はありました。しかし、そんな急に、本当に来るとは思いもしなかった。しかも、ヘリコプターで来て免震棟で会うなり、
「何をやっている。ベントはどうなっている。早くするんだ!」
 などと怒鳴り散らすのです。総理にそこまで言われると、さすがに皆、引いてましたね。吉田所長は、
「とにかく、どんなことをしてでもやります。決死の作業で、命かけてでも絶対に何とかします」
 と答えてました。

 1号機が水素爆発を起こしたのは、ベントが遅れたせいだと指摘されていますが、現場としては、近隣住民のことが気になっていました。ベントをすれば放射能がまき散らされる。近隣住民の避難状況はどうなのか、放出される範囲は広範囲にわたるので、現場としては、かなり深刻に考えていました。
 それに、自動でベントを開閉する装置がダメになっていたため、手動で動かさなくてはならない状況だった。当時、1号機のリアクター(原子炉)建屋はかなりの放射線量が予想されていました。そんな危険な場所に誰を行かせるのか。本当に決死の作業なのです。

◆もうフクイチで死んでゆくのか◆
 この「早朝視察」について、吉田所長は周囲に、無念そうにこう言ったという。
「言い訳になるかもしれないけど、菅総理がフクイチの現場に来たことで、そちらにばかり目がいってしまい、2時間ほど『ベント』などの指示が出せなかった。当時は、すべて私が指示して動いていた。それが止まったことで、周りも動けなくなってしまった」
 東電が6月に公表した報告書によると、吉田所長がベントの準備を指示したのが12日午前0時6分のこと。そして東電が、ベント実施を菅首相、海江田万里経産相、そして原子力安全・保安院に申し入れ、了承される。ところが、午前2時24分には、現場の放射線量から作業可能時間は17分と報告され、午前4時半ごろには、余震による津波の可能性から現場操作の禁止が指示された。ベントに向けた状況が、いかに困難だったかがわかる。
 さらに、午前8時27分になって、原発立地町である大熊町の一部住民が、まだ避難できていないとの情報が入る。避難終了を待って、ようやく作業員が現場に向かったのが午前9時4分。格納容器圧力の低下を確認できたのは午後2時半になってからのことだった。
 そして午後3時36分、1号機で水素爆発が起きた−−。
     ◇   ◇
 1号機が水素爆発を起こしたときは、もう目の前が真っ暗でした。ベントをしたのに、いきなりの爆発でしょう。最悪の事態です。免震棟内もパニック状態で、「帰らせてくれ」と言う作業員、社員も出てきました。私たちには、それをとめることはできません。とにかく残った人間でやるしかない。もうフクイチで被曝(ひばく)して死んでゆくのか、これまで原発で過ごしてきた何年もの日々が一瞬、頭をよぎりました。
 当時は知らなかったのですが、政府は震災当日の11日午後9時23分に、原発から「半径3キロ圏内」の住民に避難指示を出し、その後、翌12日午前5時44分に「10キロ圏内」、午後6時25分に「20キロ圏内」−−と次第に範囲を拡大していった。
 でも、現場ではもっと広い範囲、少なくとも半径50キロは避難していると思った。なんといっても、あれだけの爆発だったんですから。結局、避難範囲が半径3キロ圏内と聞いたときも、「大丈夫か?」と思ったのが正直な印象ですね。
 米政府は当時、半径50マイル(約80キロ)圏内の自国民に対して避難勧告を出しました。チェルノブイリ事故では、国際原子力機関(IAEA)の報告によると、旧ソ連の汚染地域は約14万5千平方キロメートルで、約300キロ離れた地域でも高いレベルの汚染があったことがわかっている。爆発が相次ぐ中、当時は私自身、半径30キロどころか、青森から関東まで住めなくなるのではないかと思ったほどです。
 本社と政府の話し合いで決まったんだろうけど、余震の危険性などを考えれば、最低でも半径50キロ、できれば半径70キロ、万全を期すならば半径100キロでも不思議はなかった。最初は広範囲にして、それから「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)」の予測などをもとに狭めていけばよかったのではないでしょうか。
 いま原発は何とか安定していますが、放射性物質がかなり飛散しているのが実態です。避難地域の見直しが必要だと思います。実際、もう半径20キロ圏内は戻れないと、そろそろ発表してもいいんじゃないか。子どもたちが学校に通うのは無理です。最初からもっと広範囲で避難させていればと悔やまれます。
     ◇   ◇
 菅政権は6月27日、首相補佐官だった細野豪志・衆院議員を新設の「原発担当大臣」に据えた。原発事故対応に特化した新ポストだが、海江田経産相との役割分担ははっきりしない。果たして今後、事故収束に向けて政府・経産省・東電の歯車は、うまく回っていくのだろうか。

◆「私の立場はどうなるんだ」◆
 細野さんが原発担当大臣になって歓迎ムードがあるようですが、現場としては、うーんという感じ。期待はしていたんですが、正直いって彼は経産官僚と変わりない。現場が望むのは、意思決定のスピードとリーダーシップ。でも、細野さんと話しても、どちらも兼ね備えていない。経産官僚が言っていたことを、数日後に細野さんの口から聞くという感じです。経産官僚の言うがままの「操り人形」と我々は呼んでいます。
 政府の原発に関する決定は本当に遅い。菅総理は「細野に任せてある」と言うのに、細野さんは「決めるのは総理」と言うばかり。菅さんが責任を細野さんに押しつけているのは誰の目にも明らかで、細野さんは、それには乗らないと牽制(けんせい)しているんです。堂々巡りで、一向に前に進みません。
 東電本社も経産省の言うがままで、こんなにノンビリでいいのかと思うほど意思決定が遅い。この状況を喜んでいるのは、経産省をはじめとする官僚たちです。
 現場と本社には、明らかに認識のズレがあります。フクイチから本社には毎日、膨大な量の情報が上がりますが、いま国民に公表されているのはその10%、いや1%くらいかもしれません。実際、現場は当初から「メルトダウン、メルトスルーの可能性がある」と報告していますが、本社は発表しませんでした。
 一連の発表を見ていると、派閥や上司との人間関係など、社内でしか理解できない力学が働いているように思えます。
 というのも、うち(東電)は、とにかく風通しが悪い組織なんですよ。いろんな人間が口を出してくる。
 現場と本社は、衝突ばかりです。ある本社幹部は、情報公開を巡ってこんなことを言っていました。
 「そんな情報が保安院や政府にわかると、大変なことになる。(問題が)ますます拡大するじゃないか」

 そして最後には、
 「私の立場や出世はどうなるんだ。キミはわかってるのか!」
 と言うんだから呆(あき)れてしまいます。的確な情報が適切なタイミングで届かないから、トップが最終決断しなければならないときに、十分な情報がないということが起こるのです。本当に、どこを見て仕事しているんでしょうかね。

 今回の事故は我々の責任が重大で、おわびするしかありません。いま、フクイチには日本、いや世界の存亡がかかっている−−私たち現場の人間はそういう覚悟でやっています。でも、残念ながらこれが、いまの本社の状況なのです。
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