2010年11月26日
国技、相撲のこの頃
さて、国会では、日本の外交問題、危機管理の状況が追求されている。北朝鮮と韓国では軍事演習での接触死亡事件も起きている。縄張り意識という言葉もあるが、テリトリーを荒らされるのは心中穏やかではいられない。
明るいニュースを探すと、スポーツに目が向く。相撲はこのごろ外国人力士ばかりだが、子供の頃には父と良くTVで観戦し、「君が代」は相撲の歌だと思ったくらいだった。今、大関以上の地位で日本人力士は魁皇ただ一人だ。相撲界の不祥事続きで、今年7月、場所前に大関琴光喜が解雇され、有力日本人力士が一人となった。現在、九州場所だということもあり、福岡出身の魁皇を見つめる目が日に日に熱くなっている。
初土俵以来20年以上に渡る現役生活、また2000年9月に大関に昇進、早い出世ではない。しかし、10年に渡り関脇に一度も陥落することなく大関の座を守り続けてきた。昭和以降の最年長大関在位記録を更新、なんと昭和以降の最年長大関以上在位記録(36代横綱羽黒山が引退した1953年9月場所の38歳10ヶ月)にも迫っている。
景気が低迷する九州で、38歳の福岡出身大関の頑張りは地元を元気にさせ、連続優勝の期待された横綱よりずっと歓声が大きく人気がある。2001年10月に登場した博多〜直方間の特急列車の名前が「かいおう」となったことにも象徴される。力士の四股名に限らず、人名が特急列車の名前に採用されるのは極めて異例。九州場所の館内は「頑張ってくれて、ありがとう!」の大拍手だ。ふるさとの応援大コールに魁皇も「ありがたい。帰ってこられて良かった」と感謝する。辞めてもらっては困るという地元の想いが伝わる、辞められない。
それでも13度目のカド番で迎えた先場所、負け越せば引退する意思を固めていたらしい。14日目に同じ稀勢の里を破り奇跡の勝ち越しを決めたが、内心では「今場所でダメだと思った」と告白する。危機を乗り切ったが、10月の秋巡業で負傷を再発し途中休場。奈良県内のリハビリ施設で徹底的に治療に専念した。連日、25メートルプールで1時間もダッシュ、ウオーキングを繰り返し、執念で回復に努めた。「苦しいけど自分がやれることをしっかりやろうと思った」。ふるさとのために流した汗が成績につながっている。さすがに若くないため、連日の取り組み後に深夜1時過ぎまで宿舎で治療に専念する。土俵に懸ける思いが運をも引き寄せて連勝を生み出しているかのようだ。
24日は、神懸かりの10連勝を決めた。決まり手は引き落としだが“神業”とも言える相撲で、04年春以来、6年ぶりの10連勝。現在、優勝争いでも横綱・白鵬と1敗で並ぶ。38歳が、日本人としては06年初場所の栃東以来、地元九州での優勝は初となる。
強い意志が「体はしんどい。でもやるしかない」と地道に稽古に取り組ま、今日に続いている。幾多の試練をくぐり抜けてきた「魁皇力」で、久々の日本人力士として賜杯をつかんで欲しい。千秋楽へみんなの声援は高まる。
1988年初土俵、同期には曙、貴花田(後に貴乃花)、若花田(後に若乃花)がいた。
2010年11月23日
ブログについて
この機会に、時おりご覧くださっている皆様もコメントくだるようにお呼びかけしたいと思います。書き方は、簡単です。ブログの文章の下の部分にComment というかなり小さな文字があり、これをクリックするとコメントの書き込み欄が現れます。お名前(またはニックネーム可)を書いて、文章を書き込んで送信してみてください。もっとも、不謹慎(不道徳きわまりない、フザケたもの)な言論などは削除されます。
他方、‘03年市議選挙の時より公式ホームページも開設しました。ホームページを書き加える作業は、結構、手間取ります。そこで、活動報告の部分をブログへリンクすることにしました。このブログからのHPリンクも分かるようになっています。初当選の時は、ボランティア制作したホームページでしたが、二期目にはHPを扱う会社に依頼してデザインの改訂などをしました。また、海津にいなの場合は、自民や民主の政党公約、マニフェストとは違いますから、初選挙の時に掲げた政策・「活き活き7プラン」にそって、自身の初心を忘れずに活動を続けてきました。議会ごとの市政レポートで報告させて頂いているような実績をあげてきましたが、二期目は更に政策のバージョンアップで邁進しています。そして残る任期はあと一年となりました。
勤労感謝の日、ブログのデザイン、コメント設定を手直ししましたので、ぜひコメントを書いてください。双方向型の議会活動、市民と向き合ったまちづくりを目指していきますので、短いコメントでも結構です、お待ちしています。


2010年11月16日
まちなか保健室
議員の仕事はけっこうストレスがあるが、議員一期目のころは、議会のために相当の調べ物をしたり、明け方まで原稿を書くことが続くので、物凄く後頭部に鈍痛がきて心配になり脳外科にいったことがあった。くも膜下だろうかと神妙になっていたのに、医師から原因が肩こりから来ていると告げられた時は愕然とした。それで、私もオシャレなマッサージ店をみつけポイントカードももらうことになった。ところがそこのマッサージ師が他に移ってしまって、どうもすっきり疲れが取れない、そうこうするうちに二期目の前半に呼吸が浅くなって息苦しくなってしまう事が続いた。やむなく著名な心臓外科にいってパルスメーターをつけて測定した結果、心臓ではない肩こりが原因です、と言われて拍子抜けした。首から肩、肩甲骨(けんこうこつ)のあたりまで凝り固まって、呼吸が浅くなるのだと教えられて驚いた。もうマッサージでは疲れが取れないくらいコリコリになってしまっているようだ。見えにくくなった眼鏡を変えたり、年のせいかなあ、あまり仕事が出来ないのかなあ、などと弱気になっていた。
ところが、最近、人からすすめられて若い子が一杯来ている整骨院でスポーツマッサージがあるよと教えられた。なんと、四十肩(?)を超える数年来の超肩こりが常駐していたのに解消した!!マッサージ、整体、鍼灸までやってみて諦めの境地だったけれど、整骨院に10回ほど行くうちに直ってきた。若い先生が二人体制で診てくれるので、待ち時間が少ないのもありがたい。温熱ウオーターベッドが備えてあるところもウリだそうで、電磁治療を受け、そのあとに先生が15分ほど揉んでくれて、40分くらいるの施術が利くようだ。最近の子どもや若い女性は、かつてのおじさんたちのように疲れを取る為にお金を払う事に躊躇しないらしい。
「ひばり整骨院」の先生のもう一つの感心する事は、そこに来ている小、中学生のための保健室のように子供たちの話を聞いて、リラックスさせていることだ。「ひばり整骨院」の先生は元我中駅伝部だとかで、スポーツをする子ども達の悩みを聞いたり、適切にアドバイスしたり、明るい会話が飛び交う街角の保健室のようだ(水曜の午後は休診)。とにかく、ありがとうございます。
2010年11月14日
アウンサンスーチーさん
アウンサンスーチーさんの略歴をひも解くと、1960年に母親のキンチーがインド大使に着任し、1962-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。1972年にオックスフォードの後輩でチベット研究者のMichael Aris マイケル・アリス(1946-1999)と結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。
1988年4月、病気の母を看護するためミャンマー(ビルマ)に戻る。1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された同年3月以降に激化した。同年7月には1962年の軍事クーデターより独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。戒厳令下では学生、市民らが大規模なデモを行った。アウンサンスーチーさんは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟(NLD)の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。
軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。
2009年には、国家転覆防止法違反があったとして訴追され、その際にはニコール・キッドマン、ブラッド・ピット、デビッド・ベッカムら著名人44人が、アウンサンスーチーさんへの訴追に反対し、解放を求める共同声明を発表した。軍事政権は軟禁期限は同年11月との声明を出し、アウンサンスーチーと弁護士にも軟禁解除を伝えた。その上で8月11日、国家転覆の罪で禁固3年の実刑を言い渡し、直後に執行猶予と1年6か月分の特赦を付けて再度の軟禁状態に置いた。2010年1月21日、軍事政権のマウン・ウ内相が地方の会合でアウンサンスーチーについて「軟禁期限となる11月に解放される」と述べていたことが分かった。また、同内相は、最大野党国民民主連盟 (NLD) のティン・ウ副議長も2月に釈放されると語った。11月13日、予定通りに軟禁を解除、解放された。最近、ミャンマー人の女子留学生と知りあったこともあり、ミャンマーの今回のニュースは朗報です。女性が頑張っていることをグローバルな支援で解決していく例ではないだろうか。
参考:Wikipedia
2010年11月13日
香川、大分、そして埼玉で研修
この間をぬって「市政レポート」を作成し、郵送の準備ができた。これからは議会の前にポスティングもすませなくてはならない。今、市長選に向けてチラシも多く入ってくるので、手にとってじっくりと読んでもらえるだろうか。ボランティアさんのお陰で、全市に配布できるようになってきたど、新しい住民から「ゴミになるからポストに入れないで」と怒られる時もある。我孫子の事を少しでも知ってもらいたいが、新しい住民にとってあまり我孫子のことに関心がわかない人も多いようだ。今、自治体が自立していくためには、市民に地道に訴えるしかない。湯布院がそうだったように常に努力をして周りに問いかけて、広げてい行くしかないのだと思う。
2010年11月11日
松井遊見、大江商人の卓見
当時、近江商人たちは全国を行商して歩きましたが、その多くは東海道で商売をしていました。
東海道にある宿場町は賑わい、裕福な人たちが住んでいたので、商売をするにあたっての条件が良かったのです。ところが、松居遊見は東海道へは行かず中仙道へ行商をしに行ったのです。中仙道は山間地で、住んでいるのは裕福ではない百姓ばかりです。
そんな悪い条件の地を自分から好き好んで行商しにいく松居遊見を、他の近江商人たちは「なんて愚かなんだろう」と笑いました。しかし実際には、松居遊見は、東海道へ行商に行く商人たちよりもずっと多いお金を稼ぎ出すことに成功しました。
中仙道へ行商に行くのは松居遊見だけなので、そこで上がる利益をほとんど自分一人で独占することができたのです。一方、東海道には、たくさんの商人たちが群がるように押し寄せ、競争でお客を取り合いますから、結局商人一人が得られる利益は少ないのです。松居遊見はそれを見抜いて、あえて悪い条件を選び取ったのです。
有名な相場の格言に、「人の行く裏に道あり花の山 いずれを行くも 散らぬ間に行け」
俗説では、千利休の作とされている。
人のやらないこと、人と違う道を選択すること、しかも、そのチャンスは限られているので、早くやることが肝要、成功の秘訣だという。
「群れずに、己が道をゆく」、人と違ったことを恐れない人で道を究める人がいるのは勇気を指し示すことでもあります。
参考:
植西聡 『「求めない」ほどうまくいく』RHブックスプラス
2010年11月01日
どうしたこうした(*_*)
匿名の手紙が議会事務局へ届いたと連絡を受けた。「他の議員にも来ているの、どんな封筒?」と聞いてみたが私にだけ届いたそうだ。小ぶりの小さめの白い封筒だという。前回の議会での討論について問い合わせだろうかなどと思いを巡らしてみた。視察の準備のために議会事務局に出向いた際に封筒を受け取った。差出人が無くてなんだか気味が悪いと思ったから、そのままゴミ箱に入れるかどうしようか迷ったが、エイッとばかりに封を開けてみた。
そこには、なんと賞賛の言葉が並べられていた。というより、誉め殺しと言うところだろうか。
「・・・・今回のお便りの目的はただひとつ早く市長選に出馬なさって下さい。我孫子をより良い街に出来るのは貴女しかいません。地球サイズの見識と行動力でどうかこの我孫子市を素晴らしい街にしてください。・・・・・我孫子を生まれ変わらせることができる女神のような女性だと信じています。応援しています。私の周囲の友達もそう口々に言っています。 」と丁寧な字で驚くような言葉が書いてあった。
家族に見せたところ、今のところ立候補している二陣営のどっちかから出されたもので何らか票に影響を与えるようにとの作為だろうか、これは女性の字のようで比較的若い人の字ではないか、いやいや“女神”などというのは崇める見る感じであって女性の表現ではないだろうなどと週末の話題になったものの、そのうち「龍馬伝」がはじまり、そのあとには知人から見るようにと言われた「NHKスペシャル・認知症をなおせ」を見ているうちに眠たくなってしまってあまりまじめに受け止めるつもりも無くなった。
匿名の手紙を受け取るというのは、どんな内容であれ真に受けるところまでいかない。封筒に名前を書き忘れたのだろうか?しかし、便せんの文書の始まりと終わりに「海津にいな様」と記しているのだから、自分の名前を書くつもりはなかったのだろう。きちんと名前を名乗って、きちんと応援を表明して頂けないと責任を持って受ける止めるつもりにもなれない。それに選挙とは、どんなレベルであれ軽々しい考えでは出来ない社会的行為です。選挙をたった2回でも経験してみて、選挙を支えてもらうのが生易しいことではないのと、応援する人も自分の家族でさえもウンザリする思いになっていくのを経験してきたからです。当選した場合でもいいことばかりではない。勝ち負けがその時で終わる運動会とは違うからだ。多少とも地域の利害が絡んでくるので応援する人も表向きに姿を見せる、名前を名乗るのを避けたい。「陰ながら応援します。海津さんなら大丈夫!」とよく言われる。それも有り難いが、それでは他の人にも伝えて応援しますとというのではない。二期目もようやくの当選だったのだから・・・。
自分の力以上になれる時は、それは多くの方の“真剣な力”に支えられた時です。
駅頭活動でお会いしている方なら、どこかの駅でお会いした時にぜひ名前だけでも名乗って“応援”して頂きたいものです。