そんな中で、Mさんが27日午前中、ご自宅で倒れているところを訪問したヘルパーさんに発見され慈恵医大病院に救急入院され集中治療を受けられたが、意識が回復されないまま、28日朝2時頃お亡くなりになられた。Mさんがいたから、平和条例の制定に向けて頑張れたのだから、そんな事をつらつら思いだし、眼光鋭い、しかし、人なつこい笑みを浮かべるMさんの事を思い返した。
Mさんは、文章上手だった。さすが、元大学教授だったらしく、多くの知的人材との親交も未だにあついようで、色々なことも教えて助けて下さった。
http://www17.plala.or.jp/peaceactcampaign/backgraund(PDF)new-1.pdf
2004年になってまだ議員になって数カ月の頃、被爆者の会の方から平和の記念碑の維持管理について非常な心配をされていることを打ち明けられた。私は、佐倉市に福祉関連の視察にいって「平和条例」を制定している事も知っていた。そこで、平和の条例に記念碑の維持管理の事も盛り込んであるような条例を考えてみたらと話した。そこで条例制定の請願を出すことにしようと先輩の議員に相談したが、結果的には陳情として出すことになった。継続審査となって、12月議会でなんとか採択された。ところが、執行部は条例に手をつけるそぶりはなく、議員での立法も目途がつかず膠着状態に陥って、戦後60周年の2005年が終わるところとなった。Mさんに相談すると、新年早々の4日にデニーズで集まれる人だけで集まろうとなった。都合、七福神のように7名が集まった。被爆者の会のSさんを初めとして、牧師のYさん、平和活動に関心の強い女性Tさん、Kさん、長崎の被爆者Oさん、そして私とMさんの7名だ。Kさんの協力で英文と日本語のHPを作った、文章はMさんが手がけた。世界へ向けてのキャンペーンにしようとPPC(Peace Pact Campaign)へは外国人からの応援メッセージも幾つかもらった。勉強会を重ね、幕張メッセでの世界9条大会に行ったり、大江健三郎の9条の会の講演を聞いたりと熱心に活動して、20代のTさんがも動に加わってくれるようになった。ある時は市長に直談判ということもあった!?
若いTさんはメーリングリストを作り、今では、平和ばかりではなくて、動物実験の反対運動や交通戦争の課題をやり取りするなど多種多様の情報が全国から日に何本も投稿されるMLになっている。今、その当時のメンバーも転勤などで我孫子にはいない。
若いTさんはメーリングリストを作り、今では、平和ばかりではなくて、動物実験の反対運動や交通戦争の課題をやり取りするなど多種多様の情報が全国から日に何本も投稿されるMLになっている。今、その当時のメンバーも転勤などで我孫子にはいない。
メールが繋いでくれている。Mさんもメールをされるので、80歳にもなっているとは知らずにいたが、考え方が若いし、つい最近までバイクに乗ってどこでも走っていた。
そうして、前市長の任期の最後の議会で、平和条例の制定が採択をしたが進捗はと念を押し、制定するとの言質を取らなければと私なりに頑張った。Hさんなどは、私が政党に関係せずに平和推進の活動をしているのがいいと思うから、頑張ってと声をかけてくれた。政争の具になってきたところが日本の非核運動の痛みであるようだが、ここでは我孫子としての平和活動だ。しかし、誰も選挙で再選されるとは限らないから、市議4年の任期のうちに何とか制定が出来ればと思っていたが時間ばかりが過ぎてしまった。幸い、私が二期目に当選した時は新しい市長だったので早速に議会で条例の制定の段取りを確認した。つまりこうした言葉のやり取りを議会で質問すると議事録に記録として残る。そう言う点で発言の意味は大きい。条例策定の市民委員が集められ、条例草案が検討された。その委員の一人にはTさんや被爆者の会の方、第一回広島派遣に行った女子学生、引率で行った戦中派女性(広島出身)、外国人も含まれていた。こういう点で、我孫子は凄い配慮をすると思う。年齢、国籍、性別を意識しての委員を入れていた。
さて、約半年で内容のある条例案ができたが、条例性制定を反対する組織的反対運動グループが反対の行動を起こして議会に来たりした。新人議員には平和条例の経緯も良く分からないようで、なんで今さら被爆者の会が陳情したものを取り上げるのか理解できないと、ここでまたしてもや、すったもんだがあった。戦争当時の我孫子から、千葉の各地から出征した方々が広島に駐屯して相当数の被爆者を出した事実を被爆者自身が口を閉ざして語りたくない事情があったために、風化していく事実を私は何とか新人議員にも分かってもらおうと書類をつくったりして、持っていった。満場一致とはならなかったが、平和条例を制定して2008年(平成20年)夏がすぎた。平成に生まれた人が成人する時になったのだから、記念すべき年に制定出来たと思った。
さて、約半年で内容のある条例案ができたが、条例性制定を反対する組織的反対運動グループが反対の行動を起こして議会に来たりした。新人議員には平和条例の経緯も良く分からないようで、なんで今さら被爆者の会が陳情したものを取り上げるのか理解できないと、ここでまたしてもや、すったもんだがあった。戦争当時の我孫子から、千葉の各地から出征した方々が広島に駐屯して相当数の被爆者を出した事実を被爆者自身が口を閉ざして語りたくない事情があったために、風化していく事実を私は何とか新人議員にも分かってもらおうと書類をつくったりして、持っていった。満場一致とはならなかったが、平和条例を制定して2008年(平成20年)夏がすぎた。平成に生まれた人が成人する時になったのだから、記念すべき年に制定出来たと思った。
平和条例が制定されて3年目となる。制定に向けての運動した時期は長いような、懐かしいような、大事な事はじっくり諦めずにやればいいとのMさんの言葉を忘れない。ご冥福を心よりお祈りします。