今朝、早朝7時半に軽井沢駅を発って我孫子駅に9時半到着、あびバスで我孫子北近隣センター前バス停で降りました。10館目の我孫子北近隣センターの開館式が10時からで、スムーズに来ることが出来ました。この館のオープンまでの道のりは、平成12年の地域からの近隣センター建設要望の請願採択によるが、その後は地域の方たちは建設委員会のたち上げ、まちづくり協議会などなどに懸命に取り組み、9000世帯の意見をまとめる努力をされた。縁の下の力持ちとなって、働いて下さった皆さまにはほんとに大変だったと思う。バブルの崩壊、リーマンショック、金融危機、経済環境の悪化、政権交代のおこなわれる中で、粛々とハコモノ施策に終わらないコミュニティー再生の拠点つくり、賑わいあるまちづくりをすすめるために協力してきて下さった。だから、今日の皆さんは嬉しさが顔にでていた。すんなりここまでにたどり着いたわけではなかったけれど、H19年に基本計画、20年に実施計画、用地買収などなどのプロセスを踏んで、サブ館(つくし野地区の借り上げホールなどのリフォーム館も使用)を利用の二館形式となったのも我孫子初です。これから、夏の本番、地域コミュニティーが果たすまちづくり本番です。 (それにしても、テープカットは、まさしく最高のシャーッターチャンスで取れました!! ↓)
前日は、軽井沢で重要文化財の旧三笠ホテルを見学してきました。宿場町であった軽井沢が別荘地としてデビューするきっかけを調べてきました。軽井沢が避暑地になるきっかけをつくった三笠ホテルを手掛けたのは、日本郵船の役員であった山本直良であった事が分かりました。我孫子も宿場町、そして別荘地として注目されるようになったのもやはり明治末期〜大正時代でありました。そして、我孫子に日本郵船の社長の別荘があって、その跡地が現在の日立研修所となったということです。いろいろ調べてみると、我孫子の秀でた景観が別荘地となるべく選ばれた理由が分かってきました。
できたら、市民参加によるまちづくり条例の走りとなった、湯布院にも行ってこなくてはと考えます。開発への反対運動があったり、要はまちの展望をまちの人々が真剣に考えた。そのために、環境を大切にするドイツに視察にいったり、小さな町ですが地域と行政が奇想天外な経緯をたどりながら考えに考えて選択していったのです。何事も時間と手間がかかります。
維新の青年たちはそれこそ命がけで異国とも戦いながら、国の行く末を導いていく役割を果たしました。今は、グローバル化して、インターネットで海外の事情を調べたり、ボランティアをすることでも、地域のまちづくりをグレードアップさせる事も出来るのです。それは考え方によっては楽しみでもあります。そして、その一方でどんな仕事にも大変さと、挫折が何度もあるものです。それを乗り越えられるかどうかは多くの出会い、何よりも支えてくれる人の縁ではないかなと思う日々です。もっともっと市民の皆様に出会わなくてはいけないと思います。
(下記は、旧三笠ホテル。この写真に雰囲気がおく似た我孫子の大正期にできた別荘のセピア写真を見たことがあります。)