2010年08月29日

夏の終わりに・・・

   8月も終わりだというのに、灼熱の太陽が照りつける。
 
 そんな中で、Mさんが27日午前中、ご自宅で倒れているところを訪問したヘルパーさんに発見され慈恵医大病院に救急入院され集中治療を受けられたが、意識が回復されないまま、28日朝2時頃お亡くなりになられた。Mさんがいたから、平和条例の制定に向けて頑張れたのだから、そんな事をつらつら思いだし、眼光鋭い、しかし、人なつこい笑みを浮かべるMさんの事を思い返した。

  Mさんは、文章上手だった。さすが、元大学教授だったらしく、多くの知的人材との親交も未だにあついようで、色々なことも教えて助けて下さった。

http://www17.plala.or.jp/peaceactcampaign/backgraund(PDF)new-1.pdf


 2004年になってまだ議員になって数カ月の頃、被爆者の会の方から平和の記念碑の維持管理について非常な心配をされていることを打ち明けられた。私は、佐倉市に福祉関連の視察にいって「平和条例」を制定している事も知っていた。そこで、平和の条例に記念碑の維持管理の事も盛り込んであるような条例を考えてみたらと話した。そこで条例制定の請願を出すことにしようと先輩の議員に相談したが、結果的には陳情として出すことになった。継続審査となって、12月議会でなんとか採択された。ところが、執行部は条例に手をつけるそぶりはなく、議員での立法も目途がつかず膠着状態に陥って、戦後60周年の2005年が終わるところとなった。Mさんに相談すると、新年早々の4日にデニーズで集まれる人だけで集まろうとなった。都合、七福神のように7名が集まった。被爆者の会のSさんを初めとして、牧師のYさん、平和活動に関心の強い女性Tさん、Kさん、長崎の被爆者Oさん、そして私とMさんの7名だ。Kさんの協力で英文と日本語のHPを作った、文章はMさんが手がけた。世界へ向けてのキャンペーンにしようとPPC(Peace Pact Campaign)へは外国人からの応援メッセージも幾つかもらった。勉強会を重ね、幕張メッセでの世界9条大会に行ったり、大江健三郎の9条の会の講演を聞いたりと熱心に活動して、20代のTさんがも動に加わってくれるようになった。ある時は市長に直談判ということもあった!? 

 若い
Tさんはメーリングリストを作り、今では、平和ばかりではなくて、動物実験の反対運動や交通戦争の課題をやり取りするなど多種多様の情報が全国から日に何本も投稿されるMLになっている。今、その当時のメンバーも転勤などで我孫子にはいない。
メールが繋いでくれている。Mさんもメールをされるので、80歳にもなっているとは知らずにいたが、考え方が若いし、つい最近までバイクに乗ってどこでも走っていた。
 そうして、前市長の任期の最後の議会で、平和条例の制定が採択をしたが進捗はと念を押し、制定するとの言質を取らなければと私なりに頑張った。Hさんなどは、私が政党に関係せずに平和推進の活動をしているのがいいと思うから、頑張ってと声をかけてくれた。政争の具になってきたところが日本の非核運動の痛みであるようだが、ここでは我孫子としての平和活動だ。しかし、誰も選挙で再選されるとは限らないから、市議4年の任期のうちに何とか制定が出来ればと思っていたが時間ばかりが過ぎてしまった。幸い、私が二期目に当選した時は新しい市長だったので早速に議会で条例の制定の段取りを確認した。つまりこうした言葉のやり取りを議会で質問すると議事録に記録として残る。そう言う点で発言の意味は大きい。条例策定の市民委員が集められ、条例草案が検討された。その委員の一人にはTさんや被爆者の会の方、第一回広島派遣に行った女子学生、引率で行った戦中派女性(広島出身)、外国人も含まれていた。こういう点で、我孫子は凄い配慮をすると思う。年齢、国籍、性別を意識しての委員を入れていた。

 さて、約半年で内容のある条例案ができたが、条例性制定を反対する組織的反対運動グループが反対の行動を起こして議会に来たりした。新人議員には平和条例の経緯も良く分からないようで、なんで今さら被爆者の会が陳情したものを取り上げるのか理解できないと、ここでまたしてもや、すったもんだがあった。戦争当時の我孫子から、千葉の各地から出征した方々が広島に駐屯して相当数の被爆者を出した事実を被爆者自身が口を閉ざして語りたくない事情があったために、風化していく事実を私は何とか新人議員にも分かってもらおうと書類をつくったりして、持っていった。満場一致とはならなかったが、平和条例を制定して2008年(平成20年)夏がすぎた。平成に生まれた人が成人する時になったのだから、記念すべき年に制定出来たと思った。

 平和条例が制定されて3年目となる。制定に向けての運動した時期は長いような、懐かしいような、大事な事はじっくり諦めずにやればいいとのMさんの言葉を忘れない。ご冥福を心よりお祈りします。
 
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2010年08月27日

球児たちの夏を応援する

桑田真澄と清原和博が「KKコンビt0言われてPL学園に敵なしと思われる時代がありました。
2人は1年生からレギュラーでしたが、夏の大会は特に強く、優勝2回、準優勝1回。その彼らがいた夏の甲子園で、一度だけ負けた事があったのです。

黒星を付けた唯一のチームが、後に甲子園に最年長監督としての歴史をつくる名監督といわれるようになる、木内監督が率いていた常磐線のご近所でもある取手二高でした。


その夏の試合は、取手が1点リードで迎えた9回裏にPLが起死回生のホームランで同点に追い付きます。
延長に入れば、サヨナラ勝ちができるので裏の攻撃のほうが有利。取手二高のナインは優勝目前で追いつかれて気落ちしてベンチに戻ったのは観客の目にも事情がわかった。


すると、監督は…

「よかったなあ、まだ甲子園で野球ができるぞ!」


甲子園の決勝戦ということは、他のすべての球児の「夏」はもう終わっている。その大舞台で、まだ野球を続けられることが、野球選手としてどんなに幸せなことなのか…。

この魔法の一言で、心機一転。そうだと気付いて、精一杯の夏を闘い切ろうとした球児たちは、その後に10回表の攻撃でなんと4点を奪い、取手二高は茨城勢で初めての甲子園優勝を果たすことができたのです。

たった一言で、打ちひしがれた心が元気付けられることがある。

大変な事態であっていても、そこに心から感謝できる何かを見つけて、その気持ちが自らのものに出来る。
「有り難し」とは、この世にある事が稀なこと、つまり奇跡のようなことだと意味だとの感謝の意味です。

その反対は、「当たり前」。「当たり前」の日常が奇跡の連続だと気がつけば、そこに感謝が生まれる。

『壁を越えられないときに教えてくれる一流の人のすごい考え方』 西沢泰生 アスコム
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2010年08月23日

甲子園の夏

この夏の猛烈な暑さの中で千葉県の成田高校の躍進に森田知事も応援のメッセージを送るなどしたという。堂々、ベスト4が決まった。

かつて我孫子高校が甲子園に出場した時には、まだ我孫子市に国際交流協会が出来ていない時期だった。当時、国際交流の活動をする私たちACT(我孫子カルチャー&トークの略称)と主だった2つの会があって、別々に活動していた。我孫子高校の躍進に小躍りして、私は他2グループの会長さんに声をかけて、激励の電報を打とうと申し入れた。もちろん、快諾されて3グループ連名で話がついた。このことをきっかけにして、お互いのグループが声を掛け合い、話し合いの基盤も持てた。次は、市への申し入れだった。我孫子市の国際化が遅々として進まないのを3つのグループのメンバーは同様に嘆いていたので、同じ思いで話は進んでいった。そして、早手回に我孫子市国際交流協会の規約がつくられ、英文略称をAIRAと入れて、市内の主だった団体、組織を網羅して設立への規約が市の職員によってつくられて、私たちの目の前に見せられた。そもそもこういう文章を作るのには、いまでこそ当たり前のように市民委員を募って文章草案にも魂を入れていくのを任せるが、当時の行政は私たち3グループへの打診はもちろんのことなくて、すべてつつがなく文章に上手にまとめてきた。だから、その規約を作る経緯からすると我孫子市の公的組織なのだと考えた。市の組織なのであるけれど、私たちは市民意識を市にも理解してもらおうと随分と頑張った。そして、それぞれのグループは、それぞれの活動も続けていった。協調精神こそが国際交流の一歩だけれど、いくつか気になることは指摘をした。私たちのメンバーの中には、市がそういう考えであるのだからAIRAには加入はしないと表明される方もいた。私もそうだよなーと思いながら、乗りかかった舟という心境であったのは否めない。そんな、こんな、千葉県の高校が久々に上位決定戦に臨んでいくのを、間毎日見ながら、ふと昔のことが蘇ってきた夏だった。

そして、やはり、沖縄・興南高校の春夏制覇、本当におめでとう!
これは沖縄県民への65年ぶりの最高のプレゼントだったと思う。
posted by Nina at 18:59| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月16日

戦争と平和 

 靖国問題は、終戦記念日に閣僚の参拝が問題になり、行くの行かないの前日に行くだのと、毎夏の如く国内外を騒がせる重大なアジアの国際課題になっています。最初は別の名前でいまから130年以上前の1869年に建てられ、10年後に、「国を安らかにする」という意味の靖国神社と変えられました。多くの犠牲を払った戦いだったため、明治政府は新しい時代を迎えるにあたり戦死した明治政府側の戦死者を神様として祀って讃えようと名を変えたのです。その後、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で亡くなった兵士たちも靖国神社に祀られました。

初め、靖国神社は明治維新の時に起きた戊辰戦争の朝廷方戦死者を慰霊するめ為に大村益次郎によって「東京招魂社」の名で創建されました。黒船来航までさかのぼる合祀対象基準を設けている為、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太なども維新殉難者として合祀されている。一方、旧幕府軍の兵士や、奥羽越列藩同盟の兵士、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀られていません。また、明治維新の功労者でも、その後に叛乱を起こし、あるいは叛乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠らは祀られていません。ただし、禁門の変で長州藩勢との戦いで戦死した会津藩兵らは、朝廷(天皇)を守護したとして祀られています。

女性は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦などが、5万7千余柱が祀られている。沖縄戦でのひめゆり学徒隊、白梅学徒隊等の7女学校の生徒、南樺太での真岡郵便電信局事件の女性たちも含まれています。
 
日本人限らず、中国人・朝鮮人も兵士として徴用されて、日本の為に死んでいったので合わせて祀られています。そこには紙に名前が書かれて祀るのであって、屍が祀られているのではありません。日本(天皇)の為死んでいった人に対して御霊(みたま)にたいし、ただ純粋に手を合わせてお参りが日本の礼節とされました。戦後に、A級戦犯が祀られており、この合祀問題から、昭和50年から天皇の参列はなくなっています。靖国神社の境内には、戦死者を賛美する施設、彫刻などが数多くあります(下記の写真;左 戦争三勇士 右 遊就館)。
DSC00874.JPG DSC00869.JPG













ところで、下記の写真は、隣市・柏の戦跡保存の様子です。 柏には第二次大戦の時の軍事基地として、飛行場や砲台などがありました。 それらの場所を教育委員会が中心になり戦跡として保存しています。 恒久平和を願い、戦争の実態を風化させない努力をしています。

DSC00498.JPG ←畑の中に残る砲台跡   

                                     ↓ 飛行場跡は現自衛隊施設
DSC00497.JPG


                                  ↓ 第二連隊の営門跡 
DSC00503.JPG
































フランスでは・・・・
posted by Nina at 18:29| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月15日

Japanese History after WWII

On anti-nuclear movement in Japan after WWII, men couldn’t have spoken up louder, but ordinary Japanese wives did small steps to Peace without Nuke.   


 @Ban on reporting casualties of atomic bombing

For about 7 years of the occupation after the unconditional surrender to the Allied Forces in 1945,the Japanese government and people could not publicly express their views and opinions against U. S. occupation policies.

No detailed reports on casualties and effects of atomic bombing were allowed by the occupation forces.  The general public both in and out of Japan did not know how bad things actually were in Hiroshima and Nagasaki. 

In 1952, the peace treaty between allied powers and Japan was signed, and the censorship by the occupation forces on the news released to the general public was discontinued.

Thereafter, the effects of atomic explosions and tragic situations of the survivors began gradually to be known.

 
 AUse of nuclear weapons evaded in Korea

In late 1949, the Soviet Union announced that they had atomic bombs.  The U. S. started production of hydrogen bombs in early 1950, the United Kingdom made a public announcement a few months later that they had atomic bombs, and in June the same year, Korean War started.  Harry Truman, then U. S. president who had decided the use of the atomic bombs in the Japanese theater, stressed the possibility of the use of atomic bombs in Korea. 

Finally, the atomic bombs were not used mainly because of the strong international insistence that the U. N. forces fighting in Korea d follow the policies of the United Nations that did not agree on the use of atomic bombs.    

As a part of this anti-A-bomb pressure worldwide, the more than 500 million signatures collected all over the world provided a very strong morale support.  Japan was under the occupation of allied powers then and assemblies/demonstrations against occupation policies were severely prohibited. The signature campaign to protest against the use of A-bombs was also strongly discouraged, but still, about 6.5 million signatures were collected in Japan. 

  BSignature campaigns started by a group of housewives

The atomic disease became well known by the Fukuryu-maru incident that took place near Bikini Atoll in 1954.  All of 23 crew of a Japanese tuna fishing boat working on the high seas were exposed to the rays of H-bomb explosion without any warning.  One of them died six months later as the first human victim of the hydrogen bomb experiments.  All other crewmembers also suffered severe after-effects like cancer and died later.

Inspired by this incident, a group of housewives in Suginami, Tokyo started a signature campaign against A-bomb experiments.  This soon became a nationwide movement and a national organization for the movement for banning A- and H- bombs was formed 5 months after the Bikini incident.  By the end of the year, over 20,000 people signed the petition against the bombs.

The group of medical doctors sent to Japan by the U. S. government announced that the incident was not critical because the Fukuryu-maru crew were exposed to lower level of radiation than the maximum permissible limit. They tried to influence Japanese doctors via Japanese Foreign Ministry.

The Japan-U.S. Security Treaty had been signed 2 years earlier then at the same time as the Peace Treaty.  Mr. Okazaki, then foreign minister, stated that the nuclear experiments of the U.S. necessitated by their defense requirements did not violate  international laws. In addition, he said that the Japanese government would coordinate with the U.S. government in keeping the information about nuclear tests including their effects secret. 

  CMovement in Japan for banning nuclear bombs broke up

The movement in Japan for banning nuclear bombs started after the Fukuryu-maru incident and grew so big and fast that the First World Convention for Banning Nuclear Bombs was held in 1955.  After the convention, the Japan Council against Atomic and Hydrogen Bombs (Gensuikyo) was formed, and this council took charge of holding the convention in each succeeding year.  But there were social tumults in Japan in late fifties and early sixties with many students’ campaigns, labor movements, movements of the Japan Teachers’ Union etc. which were highlighted by the nationwide anti-Security-Pact movement.   In this social condition, the National Rally against Atomic and Hydrogen Bombs (Gensuikin) was formed with the influence of some political parties after the 9th World Convention for Banning Nuclear Bombs in 1963.  Thus, the movement against nuclear bombs in Japan broke up into 2 factions.

A naive anti-nuclear-tests campaign initiated by housewives grew into a nationwide signature campaign.  But when the movement grew to need a national organization, conflicts within the group started with the difference of hues and political standpoints.

It was no longer a genuine and naive citizens’ movement and in Hiroshima, the citizens engaged in anti-nuclear campaign had to be separated to the two antagonistic groups and argue against each other.  

What remained among the people who had simply wished for peace without nuclear weapons was a bitter feeling of having been used as the tools for political wars among professionals.

It may be safely said that this is one of the reasons why the anti-nuclear campaign in Japan is, in most cases, not popularly supported by the general public.

  DSadako Sasaki and her paper cranes

Sadako Sasaki survived the atomic bombing in Hiroshima, but 10 years later when she was twelve years old, she became ill from the aftereffects of the atomic explosion of 1945.  She started to make paper cranes in her bed in the hope that she would overcome the atomic disease. Making a thousand cranes are usually believed that a wish comes true.  However, her light of hope had gone out.  Sadako’s schoolmates most of whom had the same fear of having atomic disease yearned to solace her grief and started collecting donations to have Sadako’s peace monument erected. 

The schoolmates’ campaign was reported by national news media and got a lot of support nationwide.  Thus, Sadako’s monument was finished and placed in the Peace Memorial Park in Hiroshima.  Every year on TV reports of the Hiroshima memorial services on August 6th  (the day the atomic bomb was dropped on Hiroshima) you can see the statue of a girl standing on a curved roof in the park under which numerous paper cranes are linked together and hanged.  Sadako and her paper cranes become symbol of peace.

  ESadako’s story introduced abroad

Eleanor Core ?, a Canadian woman published a book introducing the story of this Sadako Sasaki and the paper cranes in English.  Very many people in many different countries, helping people in anti-nuclear campaign a lot, have read the book.

Also in New Zealand, Ms.Kate Boanus, ? a school teacher, repeatedly told her students about the horrible effects of atomic bombs.  Her persistence influenced many people around her and the campaign spread to many places.  Movements like this around the world are considered to have resulted in the judgement at the International Judicial Court that the uses of the nuclear weapons are illegal.

 

 FAnti-nuclear campaign of Abolition 2000, the world’s biggest anti-nuclear NGO

The headquarter of the world’s biggest anti-nuclear NGO named Abolition 2000 is in Albuquerque, New Mexico, U. S. A.  The word “abolition” was first used in the anti-slavery campaign.  The first laboratory of U. S. government for developing atomic bombs was located near Albuquerque.   As the A-bomb development was the utmost national secret then, the residents in the area were not informed anything about it.  As the knowledge spread, the people’s wish to do away with the negative heritage of human beings took the form of Abolition 2000 there. You can join it free by contacting http://www.wagingpeace.org/home.html.   They are introducing the peace campaigns in Hiroshima and Nagasaki in their homepage.

Many American children read the story of Sadako Sasaki and the statue of the  children victimized by the atomic bomb in Hiroshima.  The process of the girl’s statue getting erected in Hiroshima very much impressed the American children, and they also had the statue of “Children’s Peace” built in Albuquerque in 1995.

  GNuclear experiments have taken place in the areas the minorities live

The Japanese are the only people who were victimized by the wartime use of the atomic bombs.  But after the war, there have been more than 2,000 experimental explosions that took place in remote areas in the countries that have those bombs.  The areas are usually inhabited by the country’s minorities and consequently, there are more number of minority people who have been exposed to the nuclear radiation by the experimental nuclear blasts than the Japanese atomic bomb casualties.  To describe those people in the world, the original Japanese word which means the atomic bomb victims “HIBAKUSHA” is used as it is.

  HPsychological damages to the HIBAKUSHA

Among the people who survived the atomic explosions and lived normally for several years afterwards, not a few --- maybe several thousand each year --- became ill and died because of the exposure to the radiation.  Also it became clear that there were chances of babies inheriting the negative effect of parents’ exposure to the radiation.   Those factors put HIBAKUSHA in a very difficult position when they wanted to get married or to get hired because people tended to doubt their seeming health or suspect their genetic damage --- they were apt to get segregated.

Although many of them were suffering both mental and physical problems generated by atomic bombing, they had to keep their silence as to their bitter experience to avoid segregation. 

Once they were known to be HIBAKUSHA with fear of getting sick and /or giving birth to handicapped babies, many of them were segregated and had to live poor and lonely lives losing friends and in many cases, jobs.

Some people spoke up and tried to work for improving their situations.  But they tended to get taken as extreme leftists who work for overthrowing the social structure.

With this general trend prevailing, nobody could blame HIBAKUSHA who tried to conceal their atomic bomb experiences.  Also it was almost impossible to expect HIBAKUSHA to lead the campaign to ban nuclear weapons loudly explaining what they experienced.

Now, after 55 years, things have changed a little bit and the general understanding is that HIBAKUSHA are to be properly protected and helped.   There are 158 peace-seeking groups in Hiroshima.    

  ICancellation of Atomic Bomb Exhibition at the Smithsonian Institute, Washington D.C..

When the Japanese speak against nuclear bombs, Americans counterattack them citing Pearl Harbor which they attacked before declaring the war, and Chinese and Koreans quote mass massacre of innocent citizens and the “comfort women” for Japanese soldiers. 
The American point is that although 300,000 Japanese civilians were killed by atomic bombs, it was the Japanese who initiated the war and invited the tragedy.  They say that the Japanese who were the original aggressor should not be simply yelling loud about the damage of atomic bombs.

The Smithsonian Institute Museum in Washington D. C. was originally chosen as the site of the Atomic Bomb Exhibition.  But because of the objections raised by many American people including the war veterans, the site was changed to American University.  According to the Japanese staffs in the U.S. who took part in the preparation of the exhibition, the Japanese side has to act in the U. S. remembering the emotion of the American war veterans and 70% of Caucasian Americans who justify the atomic bombing of Japan.  They say that simply insisting the Japanese interpretation will not convey anything to the other party.  Only after our understanding their culture different from ours through humane and heartfelt communication with them, they will lend their ears to the Japanese idea of ‘peace without nuclear weapons’, they say.

Memories are still fresh that Japan fought against the U. S. and Great Britain who lead the basic trend of the western opinions and, against China who has the biggest population in the world. 

If the Japanese straightforwardly stress the horrible damages of nuclear bombs which are hereditary to the future generations, the other parties may not accept the innocent wish of the Japanese for the peace without nuclear threat, and may blame the Japanese for playing the role of the A-bomb victims too much.

One of the difficulties for Japan in advocating PEACE lies here. 

 * These texts are licened by "Chikyu Talk" , printed in 2001.                                                                          
    KAIZU Nina has been acting as the president of ACT
    Abiko Culture & Talk, who is a author of "Chikyu Talk".



                                                    

日本語を読む
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「戦後60周年平和事業記念誌」に寄せて

                 
下記は、我孫子市の60周年平和事業の記念誌に掲載されたもので、被爆者の会の方たちにも確認いただき、書き記したものです。

                      
              戦後
60周年に思うこと                                                                                  

                                                           海津にいな(つくし野在住)

 手賀沼公園に、広島の慰霊碑を模した三角形の平和の記念(モニュメント)碑があるのご存知でしょうか。暑い8月に、被爆者の会主催による平和記念式典も続けられてきました。「広報あびこ」に式典の日程が掲載され、私がそれに目を留めて式典に初めていき合わせたのは1993年(酉年)、丁度12年前でした。その夏は、我家にアメリカ人高校生が3ヶ月ほどホームステイしました。間もなく帰国というのに一度も手賀沼公園に連れて行ったことがなかったので、平和式典の日時に合わせて行ってみました。週末の朝であり、人数のすくない式典には近づきがたい雰囲気がありました。その様子を見ながら、しかし被爆地でもない我孫子でなぜ原爆慰霊祭をしているのだろうと不思議に思いました。『ヒロシマ・メモリー、千葉県我孫子市に生きる被爆者』(1982年:市職員組合刊行)と本を手にし、千葉県に被爆者が3千人以上もいることを知ったのはそれからでした。終戦前年(1944年)、徴兵の改正で年齢が18歳にまでに引き下げられ、我孫子からも更に多くの若者が出征しました。我孫子の配属先は佐倉の連隊であり、「総武第2795部隊」として3200名に再編、終戦の年の7月には広島郊外の加茂郡原村(八本松)に駐屯していたので、部隊は広島市内での救援活動と遺体処理作業を命じられました。10日程の作業で、兵士も強い残留放射能を浴び二次被曝しました。「我孫子市原爆被爆者の会」は1978年に発足、翌年には自治労我孫子市職員組合が協力して聞き書きの本を作ることになりました。幸いにも、“藤正(ふじまさ)さん”と通称された開明的な渡辺藤正市長のときに戦後40周年で、平和都市宣言がされました。折りしも旧広島市庁舎を取り壊すとの記事を目に留め、染谷会長(初代)は平和記念碑を建立しようと奔走しました。市の協力を得て軽トラックを借り、柏市、八千代市の分も譲り受けてきたということです。被爆した旧庁舎の敷石、側壁の石は設置されるまでのしばらくの間、議会棟に安置され平和記念碑の前面に石が設置されました。記念碑が出来たころは、アビスタが建設される以前の旧公民館の頃で、木立に囲まれ人目にあまり触れない場所でした。真夏、8月には市長、議長らも出席し平和記念式典は続けられてきました。 あるとき、助役に我孫子の生徒たちも参列させてはと話したことがありました。原爆投下の際に広島にいた助役は、「被爆者の方々がお子さんや孫を参列させないし、まして被爆者である事を他言したくないと思うのだから、市内の生徒を参列させることは難しいのでしょう。」と言われました。被爆者は放射能の影響による健康不安ばかりでなく、就職、結婚などで差別を受けることもありました。そのため被爆者手帳も申請せず、専門医療を受けない人もいたのです。「ヒロシマ・メモリー」に協力した被爆者へも年齢性別だけで名前を明らかにしているのは会長の染谷政富さんだけです。組合職員は信頼関係をつくり熱心に取り組み、刊行までに3年かけて纏めたということです。戦後60年たって、被爆者の方たちは相当に高齢となられました。市内の中学生らを含め100人を超える参列者を被爆平和記念式典に招き、戦後60周年の黙祷を捧げ、2度と戦争を起こさないようにと平和を祈りました。市内生徒の代表は、四半世紀ぶりの我孫子からの平和使節派遣として広島の式典にも参加しました。広島派遣で、生徒たちは救援活動での二次被曝やお母さんのお腹での体内被爆、強制連行で被爆した中国・朝鮮の人たちが多くいたことも知ったでしょう。被爆者が真剣に平和への祈りを続け市民として力強く生きたことや戦争の犠牲者の上に今の平和な日本が作られたことなど、次世代にも地域の人々の努力を理解し継承して欲しいと考えておいでです。我家にホームステイした高校生は、米国で“裸足のゲン”というアニメを授業で見て原爆の恐怖を知ったのでした。日本人が焦土と化した国を復興させたのに感心し、一粒の麦のように芽を出していく日本人の精神力に敬服したと話していました。被爆者の凄まじい苦しみにショックを受けたし、当時に学生だったなら大統領に抗議したと言うのでした。ある被爆者に彼女の話を伝え、外国人にも我孫子の記念碑の意味が分かるようにするといいですねと話したことがありました。国際交流のボランティアで英文の説明も加えられ、銅版プレートが設置されました。この留学生の話は「AIRA(我孫子市国際交流協会)」の広報紙に紹介されました。干支が一回りした酉年の2005
年、その彼女から「結婚しました。佐世保に住んでいます。赤ちゃんが生まれます。」と便りがきました。我孫子からの祈りが、世代や国境を超えて語り継がれ平和を護るようにと心より願っています。

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2010年08月14日

戦後65周年の夏

戦後65年の夏、菅首相に代わって、広島での平和祈念式典や戦没者慰霊式典での発言が注目される。
我孫子では、被爆65周年の平和祈念式典が行われるほか、戦後65周年の平和事業が行われている。

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戦争の記憶(PDFファイル) ↓

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2010年08月13日

我孫子市長から、消費者庁長官へ

元我孫子市長の福嶋氏が、消費者庁の長官になられた。
行政機関の「長官」には、国務大臣(閣僚)をもって充てなければならないもの(内閣官房長官)と、そうでないものとがある。後者は、いわゆる官僚ポストですが、法律上は国家公務員から登用しなければならないとの規定はない。民間人から、事実上の政治的任用をすることも可能です。ということは、我孫子の事業所の役職OBで占めてしまわなくても、有能な我孫子市民であれば十分に可能なのではないだろうか。6月
議会でこのことを正したが、時間をかけて検討するとのことだった!? 


福嶋浩彦氏の消費者庁長官の記者会見 コメント
http://www.caa.go.jp/action/kaiken/pdf/100811c_kaiken.pdf
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2010年08月12日

政治献金をネットで

楽天が、個人の政治参加啓発を目的に、政治に関する情報提供とともに、政治献金サービス始めました。サービスを実施するためのシステムに関し特許出願中だと言う事です。英語を公用語にする世界企業だと宣言した楽天は、政治のすそ野を広げて社会を活性化させるとの意図はさすがと思います。
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この暑い最中に、香川県では知事選が展開されている。紅一点の女性候補として出馬しているのが、県議4期の渡辺さと子さんで、楽天の政治献金サイトにもエントリーしています。渡辺さんは、政治を伝えるにはインパクトも大事だといいます。そして、「国政が変わったいま、県政も変えないといけない」と話します。政府の経済対策でも、自治体により、ずいぶん取り組みが違います。民間住宅の省エネ改修、耐震診断・改修など、地域で小さな仕事をたくさん作り、県内にお金を回すことはできる、ということを主張していくということです。 また、現場に出て行き、現場の声をしっかり聞いて県民とともに仕事をするような県庁にするよう、意識改革を進め、県民参加を進め、権利条例を制定したいということです。生活を大切にして、無駄のない税金の使い方に筋道をつけるこのような人に時代を担う知事になってほしいと思います。投票日は29日です。香川県にお知り合いのいる方は、是非、チェックして応援してあげてください。
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2010年08月10日

PHP研究所のマニフェスト塾参加

財源の捉え方をテーマにした研修会に参加した。各地の議員が集まるが、4回の講習会費が8万円と高いためなのか、夏休み真っただ中の日曜日の朝10時から5時過ぎまでというスケジュールのせいか私が参加した時は女性は一人だった。 

午前中は、基調講演として神奈川県の事例を県政総合センター長・海老名氏から紹介、松沢知事が提言したマニフェスト政策(第1期の時は37政策、条例宣言11件)の検証をした。知事や首長クラスならいざしらず、選挙の時に議員がマニフェストを掲げて、それを執行できるのか疑問であったが、マニフェストの持つ意味を考えるとそうした姿勢を打ち出して、政策に反映させることはやり方によっては可能だと説明された。要は、数を取れなくては、市長であっても議員であっても時間の差があるものの、住民のために必要な政策を動かすことは同じなのだ。

午後は、横浜市立大学エクステンションセンター長の南氏のセミナーとワークショップであった。
・臨時財政対策債という赤字地方債
・交付税措置という幻想
・インフラ・公共施設という時限爆弾
・財務諸表から何を読み取るか
・未曾有の財政危機への対応を全庁的に

正規職員平均給与を800万円、とすると1事業にかかるコストには職員の人件費でどのくらいなのか、考えに入れる癖をつけるべき
posted by Nina at 17:10| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月08日

Nagasaki Memory '04

IMG_0004.jpg  Uragami church in Nagasaki

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 Explanation of atomic-bombing       students(Sakura Junior high)  learned in  Nagasaki

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there are thousouds orizuru for praying Nuke Free at grand-zero of Nagasaki

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 students of junior high bow to dead        Sakura city sends two students 
                                                                        from all junior high school

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students listened the headmaster          students listened a victim of atmic-bomed    
   of  Shiroyama elementary school             when she was in her mother's womb

IMG_0002.jpg too many people died
                                      Nina stand at the front of files of the dead document


I had visited Nagasaki in the summer 2004, seeking the way of 
Abiko Peace Pact as following Sakura City.  Sakura has already had their own Peace Pact , so tht  they send 2 students from each shool to Hiroshima and Nagasaki every year, and continue many Peace events.   
*You may click pictures to see them enlarged.
   
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2010年08月06日

非核平和、広島を考える


望田幸男教授からの非核メッセージ
(同志社大学名誉教授。歴史学者。専門はドイツ近現代史。非核の政府を求める京都の会世話人

http://homepage2.nifty.com/hikaku-kyoto/massage_motida4.html


オバマ大統領によるアメリカの核戦略180度転換、国連における核兵器廃絶決議は例年のことであるとはいえ賛成国数は過去最高、核不拡散(核兵器不拡散)の破綻、非同盟諸国の増大(118か国)、核保有国に核軍縮を誠実に実行させる、地域的非核化条約(地域非核兵器地帯化条約)、核兵器を使わせない、北東アジア非核地帯化の運動(北東アジア地域非核兵器地帯化運動)、北朝鮮を取り込んだ積極的な将来展望、「軍事費を削減して生活防衛にまわせ」、中東非核地帯化(中東地域非核兵器地帯化)の実現、核分裂性物質製造禁止条約(FMCT)の交渉開始、ただし核保有国などがすでに大量に備蓄している核分裂性物質の廃棄をふくまない不平等性など、乗り越えるべき問題点をかかえています。
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Hiroshima Memory

the day before the peace ceremony
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 the center of explosion      learned the history of Hiroshima

many Koreans  had also died  at the moment   
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      prayers from abroad                       Abiko students talked with ambassdors


listening from people of Hiroshima          just before the ceremony 
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            Message from Pope John Paul II


Visiting the old elementary school 
    that was atmic-bombed
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                                                                                          lantans for praying peace 
  

                              We pray Nuke free for the 21st century!
                                          Can we do it?  
                                                      Yes, we can do it together. 
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2010年08月05日

被爆65周年 平和祈念式典

木曜日は定期的に我孫子駅南口で駅頭活動の日です。そして、この日の朝は市内6校の中学代表の生徒たちが、広島派遣で出発する日でした。顔なじみの職員、平和条例の制定の委員の方々などが見送りをされ、8時の電車で出発していった。
 生徒たち、市民代表が広島の平和記念公園で我孫子代表として参列するようになって5回目です。私もその最初の派遣のおりと市民代表派遣の最初の年と二回ついて行きました。6人の生徒たちは、広島に行って様々なメディアが世界各国から来ている様子や首相の発言を目の当たりにします。帰って来るといろいろな活動に関わって、我孫子市の人材として大きく成長していきます。我孫子市の平和条例制定の際には、最初に行った生徒が草案の制定の際に委員になっており、中には英語スピーチ大会でその時に思いを演説し、賞を得るなど、私も彼らの大変頼もしい活躍に目を見張っています。子どもたちは、感性が鋭く多くの事を吸収し、大人の励ましで思いのほかに頑張るものです。

8/14(土)「被爆65周年 我孫子市平和祈念式典」 
          主催:我孫子市、我孫子市被爆者の会

9:30−10:30 (受付 9時〜)平和祈念式典
 手賀沼公園入り口 平和記念碑前(屋外の為日よけテントも設営)
 内容:市長らのメッセージ、献花、広島派遣中学生代表の平和宣言
 *どなたでも、参列して頂けます。

13:10〜 映画「GATE」 * 無料 150名 (午前中 10:45〜も同内容を上映) 
    アビスタ ホール

被爆写真と折り鶴展示(8/3〜8/16)
    アビスタ 1階 通路
     

 戦争当時、我孫子市など県下各市町村から出征されて広島に駐屯された方々が県内にも多くおられ、8/6の当日に被爆された方などが1000人近くおられましたが、表に名前をだされることを忌避されていたので、ほとんど事実は知られないままです。我孫子の場合は、勇気あるお一人がこうした事実を風化させてはいけない、平和を守り続けなくてはいけないと「我孫子市被爆者の会」を立ち上げて、平和の記念碑をつくることに奔走されました。被爆した広島庁舎の側壁、敷き石を貰い受けて各自治体に分配して、平和記念碑建立をする労をとられるなど、被爆者として核兵器のない平和を希求する活動を熱心に行われました。記念碑建立の際に我孫子市は平和都市宣言をしています。
 平成20年には、我孫子市平和条例を制定し、超党派で県議、市議らの参列もされるようになりました。

http://kaizublog.seesaa.net/article/105266290.html
http://www17.plala.or.jp/peaceactcampaign/
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2010年08月01日

盛夏

8月1日、いよいよ夏休み最盛期です。
今朝、早朝7時半に軽井沢駅を発って我孫子駅に9時半到着、あびバスで我孫子北近隣センター前バス停で降りました。10館目の我孫子北近隣センターの開館式が10時からで、スムーズに来ることが出来ました。この館のオープンまでの道のりは、平成12年の地域からの近隣センター建設要望の請願採択によるが、その後は地域の方たちは建設委員会のたち上げ、まちづくり協議会などなどに懸命に取り組み、9000世帯の意見をまとめる努力をされた。縁の下の力持ちとなって、働いて下さった皆さまにはほんとに大変だったと思う。バブルの崩壊、リーマンショック、金融危機、経済環境の悪化、政権交代のおこなわれる中で、粛々とハコモノ施策に終わらないコミュニティー再生の拠点つくり、賑わいあるまちづくりをすすめるために協力してきて下さった。だから、今日の皆さんは嬉しさが顔にでていた。すんなりここまでにたどり着いたわけではなかったけれど、H19年に基本計画、20年に実施計画、用地買収などなどのプロセスを踏んで、サブ館(つくし野地区の借り上げホールなどのリフォーム館も使用)を利用の二館形式となったのも我孫子初です。これから、夏の本番、地域コミュニティーが果たすまちづくり本番です。 (それにしても、テープカットは、まさしく最高のシャーッターチャンスで取れました!! ↓)
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前日は、軽井沢で重要文化財の旧三笠ホテルを見学してきました。宿場町であった軽井沢が別荘地としてデビューするきっかけを調べてきました。軽井沢が避暑地になるきっかけをつくった三笠ホテルを手掛けたのは、日本郵船の役員であった山本直良であった事が分かりました。我孫子も宿場町、そして別荘地として注目されるようになったのもやはり明治末期〜大正時代でありました。そして、我孫子に日本郵船の社長の別荘があって、その跡地が現在の日立研修所となったということです。いろいろ調べてみると、我孫子の秀でた景観が別荘地となるべく選ばれた理由が分かってきました。

できたら、市民参加によるまちづくり条例の走りとなった、湯布院にも行ってこなくてはと考えます。開発への反対運動があったり、要はまちの展望をまちの人々が真剣に考えた。そのために、環境を大切にするドイツに視察にいったり、小さな町ですが地域と行政が奇想天外な経緯をたどりながら考えに考えて選択していったのです。何事も時間と手間がかかります。

維新の青年たちはそれこそ命がけで異国とも戦いながら、国の行く末を導いていく役割を果たしました。今は、グローバル化して、インターネットで海外の事情を調べたり、ボランティアをすることでも、地域のまちづくりをグレードアップさせる事も出来るのです。それは考え方によっては楽しみでもあります。そして、その一方でどんな仕事にも大変さと、挫折が何度もあるものです。それを乗り越えられるかどうかは多くの出会い、何よりも支えてくれる人の縁ではないかなと思う日々です。もっともっと市民の皆様に出会わなくてはいけないと思います。
(下記は、旧三笠ホテル。この写真に雰囲気がおく似た我孫子の大正期にできた別荘のセピア写真を見たことがあります。)

P6270836.JPG 



 
posted by Nina at 17:19| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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