
無事に 講演会@根戸近隣センター(5/30)を終了しました。
ご参加くださった皆様、ボランティアで会場設営の準備を下さったGシードの皆様、ありがとうございました。
今回の企画は、女性議員仲間の田中朝子さんが、渡辺よしみさん、水野賢一さんをお誘いくださり実現したものです。
なにかと話題の方々ばかりなので、大勢の皆様から質問が相次ぎ、司会を務めた海津にいなもマイクが一本では足りないくらいでした。
日曜日、雨の中を久しぶりに第二のふる里・芦屋を歩いた。あの震災からももう15年以上もたっている。
阪神大震災の時に、連絡が取れなくなって友人達が心配で、テレビに釘つけになって心配した。新内閣となって村山首相となって直後だったが、自衛隊への采配が悪かったために神戸の震災後の火事はどんどん燃え広がった。初期対応の遅れで、二次災害も起きたのだった。首相の判断は、これほどまでに人の命にかかわるのかとテレビで残酷なまでに見せた。そして、政権与党の頂点に坐したのを最後に社民党は低迷していった。
我孫子に来てから、3回も転居した。この地が私が生まれてからもっとも長く住む土地になるとは思わなかったが、そのうえにひょんなきっかけで選挙に出て、色々な方に誘われていくつかお宅をお訪ねしてたが、またまたひょんなことで芦屋時代の幼稚園のお友達の知り合いの方と偶然知り合った。そしてその共通の芦屋の友人がすい臓がんだった事がつい最近に分かった。視察が芦屋だったので久しぶりに電話したことが、きっかけだった。電話での様子が変だったなあと思ったが、あとで末期癌だとメールが来て驚いた。視察から帰って、毎日、図書館で大量に本を借りたり、癌センターに勤務している人に電話をしたり、毎日いてもたってもいられなくなって眠れなくなった。
そして、やはりとにかく会って手術を進めようとと思った。友人には知らせずに彼女の家の近くまで行って電話した。幸い在宅していたので、出てきて会ってくれた。30分くらい話をしながらお茶を飲んだが、その間にもそっと薬を取り出して飲んでいた。どうすることも出来ない、ただ抱き合って泣いてしまった。仕方がないと言いたくはないけれど、どうしようもないことがあるのが、よくわかった。彼女は私に「良い議員さんになってね」とそっと言った。確かに、三年前の選挙の時に新幹線で日帰り応援に来てくれたのを思い出した。わざわざ応援をしようと思って、お金をはたいて来てくれた親友の気持ちが分かった。なんとかしてあげたいと思うからだ。
すぐに新幹線に乗る気にもなれなくて、雨の町を歩いた。慣れ親しんだ家のあたりを歩きまわったが、雨の宮川は急流になっていた。町は見事に復興して、前よりも整然とした街並みになっていた。電話しても、いつか返事をくれなくなってしまうのだと思うと辛い。ご家族も、相当に大変な想いで自宅療養を見守っているのだと思う。ローンで買ったばかりのマンションが震災にあってしまって、その恐怖体験から抜け出すために再度住宅ローンを組んで新たな場所に転居し、そのローンを返すために頑張って仕事を続けていた。ストレスの多い職場だと言うのは聞いていたけれど、ストレスこそ癌を誘発する原因だと言う。
私が我孫子の市民会館の耐震強度問題のことをずーっと指摘し続けたのは、多くの市民が集う場が耐震強度がなくて、危険だという専門家の報告書が出来ていたのに放置していたことを知ったからだった。
当時、障害者の就労支援の相談窓口、赤ちゃん広場、ファミリーサポートセンターなどが市民会館にあった。それこそ災害弱者と言われる人が来ることが多いわけだし、成人式や中学生の合唱祭などでっ町中の子供たち、新成人が集まっている時もある。もし大地震になったら、市の貴重な未来の人的資源を一挙に失ってしまう事になる。それだけではない、震災の恐怖体験でそういう子供たちはPTSDの後遺症にもなるのも聞いていた。
そもそも公共施設は、通常の家屋より多少とも安全だと思われているはずだ。時に避難所になったりするのが公共的施設だ。危険との指摘がされて、報告書まで出ていて、それを使い続けて、集会施設にもなるところで子供たちに恐怖体験をさせてはいけないと思ったから、私は一期目ではあったが、議会ごとにその点を追求し続けることになった。市民会館を廃止に追い込む事になるかもしれないと心苦しくなることもあったが、市民の安全を守るのは議員としては職務だろうと考え、孤立しても頑張って言い続ける方を選んだ。一期目は市民開館の事で悩んだものだった(なんで、市長、先輩議員はなんでも知ってて放置しているのか??などと)。少ないけれど、私の主張は間違ってないと応援してくれる市民もいたから、言い続けられた。一期目だから出来たのかもしれない。そして、芦屋にいる友人達の苦労、恐怖体験を思ったから言い続けたのも事実だった。その意味でもなつかしい「我孫子市民会館」ももうまもなく姿を消す。
そして我孫子の市議会で活動するだけの私では、なんともしれ上げられないのだなあと、落胆しながら新幹線で戻ってきた。23日の夜遅く、我孫子に戻った。寒い冬の雨のような日だった。
上海万博が始まった。昨年、春先に上海・南京を訪れた際に、上海の駅前、市内に万博キャラクターが目についた。益々、中国が活気つくのだろうなあと思ったものだった。
市内を歩いていて、過去に江沢民氏が上海市の市長であったことを改めて認識した。上海からほど近い町である南京は日本軍によって大虐殺が行われたところで、その虐殺された人数には諸説があるとされるが、日本の教科書にもその数を史実として触れているものもある。しかし、南京にある記念碑が、いかに大きいかとか、その建立費用を日本の政党が資金援助し、挙句にもらった方の中国共産党がどのようにしたかということを調べているうちに、どれ一つをとっても事実認識とは、調べれば調べるほど思わぬ事が多いのだと感じるのみだった。まして教科書に歴史を記すともなると、事実を認識をすることは必要だが、何のためにどこを強調するのか、近隣の国であればあるほど感情を煽って敵愾心を募らせるというのではなくて、理解を進める手だてにしていかなければならない。政治、特に外交を操る人は一筋縄ではいかない人ばかりが多いのだから、21世紀の私たち地球市民は一国安寧を思うだけではなくて、将来にわたる世界の平和を考えなくてはいけないと私は思うようになった。
資料参考:Wikipedia ↓
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