私は2004年11月に沖縄の那覇市、北谷町を平和条例の研究で視察に行った。移動途中で、大学の夏休み休暇中(写真は沖縄国際大学の校舎の当時のもの)に米軍機が落下した事故の傷跡をみることになった。
北谷町(チャタン町)は、人口3万未満の小さな町で、宜野湾市に隣接する。米軍基地が町の54%占め、県内で米軍基地占有率3位だ。「平和の日」を制定しているということで、その説明をして頂いたが、役場職員は、役場のぐるりが米軍の基地なのだと位置を説明されて、やはり文献、ホームページだけでは気付かないことが多いものだと視察する意義を改めて実感した。視察後には庁舎の屋上からその状況を見せてくれたが、フェンス越しのすぐ向こうが米軍基地で爆音とともに米軍機が飛来する。町は基地の高官と地道に交渉して町役場の土地を得るなど返還要求をしてきたと話してくれた。
町役場の周辺説明
「平和の日」を設定しいる町なのは、沖縄戦の凄まじさを忘れないで平和な町となったのを心に止めておこうというものだ。一方で、沖縄はいかに自治体ぐるみで経済を活性化させるか町職員は町民の期待を一身に受け、必死になって何百もの企業に誘致活動に出向いて全国を歩いたのだと話してくれた。最初は全然だったが、躍起になって何度も出向いて成功に漕ぎつけたとアメリカンビレッジ構想(河岸を開発して、町の面積も広げたり、米軍基地の人たちとも融和する)の苦心談も聞いた。その年には、佐倉市の中学生の長崎平和派遣(もともと、我孫子市に平和条例を制定してはの提案は、佐倉市へ福祉についての行政視察に行ったのが発端)にも同行させてもらった。佐倉市は、宣言のみならず、条例も制定していたので、我孫子市でも戦後60周年の節目に条例を制定してはどうかと提案した。そうした質疑を繰り返す中で、60周年平和事業推進市民委員会(下記は、市民委員会のワーキンググループの状況です)
が設置されることになって、その事業の一つに広島への平和派遣が始まった。それまで、広島平和式典の行政席に我孫子市として参列してきたが、長らくそれもスットップしていたという。そこで、佐倉の中学生の長崎派遣の同行した模様を克明に説明し議会質問を繰り返してきていた。当市における平和条例制定へにはそれなりに紆余曲折もあったが、議会の理解を取り付けるまでに、長いこと市民とともに努力してきたのをふと思い出した。
07年市長選で市長が変わり、その翌年に市民公募などの条例制定委員が発足し、半年で条例案がまとめられて、議会で議決したのが平成20年の6月議会だった。日本が戦争に加担しないで、平成が二十歳を迎えたお祝いだったと私は思った。